世界を席巻した1960年代のスズキ!しかし1970年代には経営危機に…

機織り機メーカーからバイクメーカーへの転換を果たした1950年代のスズキですが、1960年代になると、国内外へ積極的に商品を投入し、モータースポーツでの活躍も相まってスズキの名を世に知らしめました。一方、1970年代になると2サイクルエンジンにも限界が見え、苦難の時代を経験します。

マン島TTレースでの大活躍を武器に、海外展開を果たした1960年代

 機織り機メーカーとしてスタートしたスズキですが、1955年に発売した「コレダST1」が10万台を超える大ヒットモデルとなったことで、1960年代にはすでに日本を代表するバイクメーカーとしての地位を築き上げていました。

1955年に発売した「コレダST1」
1955年に発売した「コレダST1」

 一方、モータリゼーションが進みつつあった当時の日本では、バイクに対しても多様性が求められるようになり、スポーツモデルやレジャーモデルのニーズが高まっていました。

 そのようななかで、スズキは1960年にスポーツモデルの「コレダツインエース250TA」を発売し、高い性能とスポーティなルックスが人気を呼びました。

世界初の500cc 2サイクル量産車である「T500(1968)」
世界初の500cc 2サイクル量産車である「T500(1968)」

 さらに、より大排気量を求める声に応えて、世界初の500cc 2サイクル量産車である「T500」を1968年に発表し、原付一種から大型まですべてのカテゴリーで2サイクル車をラインナップするようになりました。

 また、海外への輸出が本格化したのも1960年代のことです。1950年代にも、台湾やタイ、インドネシア、そして南米諸国などへの輸出実績はありましたが、いずれも少量でした。しかし、1961年に初の海外事務所をイギリス・ロンドンに開設したスズキは、積極的に海外展開をおこない、1964年には100か国以上へと輸出するようになります。

1960年代のGPで活躍したスズキ「RT67」
1960年代のGPで活躍したスズキ「RT67」

 スズキがこれほどまでに短期間で販売網を構築できた背景には、1962年のマン島TTレースでの優勝が大きく関わっています。

 国内市場が飽和状態にあるなかで、海外市場への進出が必要不可欠と考えていた当時の鈴木俊三社長は、スズキのバイクを世界にアピールするために、バイクレースの最高峰とも言えるマン島TTレースへの参戦を決意します。

 1960年に初めて参戦したスズキは、上位入賞こそできなかったものの、参戦車両3台すべてが完走を果たし、初出場にして「ブロンズ・レプリカ賞」を獲得しました。

1962年には新設されたマン島TT50ccクラスで初優勝を飾った「RM62」
1962年には新設されたマン島TT50ccクラスで初優勝を飾った「RM62」

 翌1961年は惨敗したものの、1962年には新設された50ccクラスで初優勝を飾りました。全員が上位に入賞し、「銀レプリカ賞」とともに、メーカーチーム賞や最高ラップ性も獲得するなど、まさに圧勝と言える戦いぶりでした。

 鈴木俊三社長は、当時の社内報に「従来の『実用は2サイクル、レーサーは4サイクル』というヨーロッパおよび一般の通念を打破し、2サイクルエンジンへの関心と認識を新たにした点でもその意義は大きい」とのコメントを寄せるなど、世界中にスズキの名を知らしめるにはじゅうぶんすぎるほどの活躍を見せました。

 スズキは同年のGPレースで快進撃を続け、年間のメーカーチャンピオンや個人チャンピオンのタイトルを獲得し、参戦3年目にして50ccクラスの世界王者となりました。さらには、翌年以降も各カテゴリーで圧倒的な強さを見せつけ、50ccクラスで3年連続、1965年の125ccクラスも含めれば4年連続でメーカーチャンピオンを獲得し、世界を驚かせました。

多彩なモデルを国内外に展開、そしてついに4サイクルエンジンも投入

 一方、飽和状態にあると考えられていた国内市場も、1970年代に入るとにわかに盛り上がりを見せます。

500cc 2サイクル空冷2気筒エンジンは最高出力47PSを発揮した「GT500(1971)」
500cc 2サイクル空冷2気筒エンジンは最高出力47PSを発揮した「GT500(1971)」

 このタイミングで、スズキは相次いで新型モデルを発売します。1971年には「GT250」「GT350」「GT500」の3モデルに加え、「TS90T」「ミニクロ50」「スズキフリー50」「TM400」を発売したほか、当時人気のオフロード車の「ハスラー」シリーズなどをラインナップしました。

 また、1972年には「GT750」がスズキとしては初めて警察庁に納入され、史上初の750ccクラスの白バイとなりました。

リードバルブ方式の50cc 2サイクル単気筒エンジンを搭載したファミリーバイク「ランディー」を1976年に市場投入
リードバルブ方式の50cc 2サイクル単気筒エンジンを搭載したファミリーバイク「ランディー」を1976年に市場投入

 1970年代後半になると、オイルショックの影響もあり、経済性の高いファミリーバイクの需要が高まります。スズキは「ランディー」を投入し、ライバルのホンダ「ロードパル」やヤマハ「パッソル」とともに主婦層を開拓し、大成功を収めました。

モトクロス世界GPレース優勝車「RH70」の技術を反映させたオフロード専用の市販モトクロッサー「TM400(1971)」
モトクロス世界GPレース優勝車「RH70」の技術を反映させたオフロード専用の市販モトクロッサー「TM400(1971)」

 同時期には、アメリカを中心とする海外市場でもスズキは好調な売れ行きを見せていました。「TS/TC90」や「TS250」、「TS400」といったデュアルパーパス車の好評に加え、当時スズキがモトクロス界で圧倒的な成績を見せていたことも手伝って、「TM125」や「TM250」、「TM400」といったオフロード車も高い人気を誇りました。

 ただ、環境規制の厳格化が進むなかで、2サイクルエンジンの限界も見えつつありました。また、400cc以上の大排気量エンジンでは2サイクルを採用するメリットが薄かったこともあり、スズキは4サイクルエンジンの開発に着手します。2サイクルエンジンによって躍進を遂げた1960年代のスズキですが、その後も2サイクルエンジンにこだわり続けたために、1970年代になると環境規制への対応に苦慮することになります。

 当時の鈴木修専務は、1974年9月に開かれた国会へ参考人として出席し、1976年に施行予定だった新たな環境規制の緩和と延期を求めました。

 ほかのメーカーからも同様の要望が行われ、最終的にこの要望が認められたことで、スズキは環境規制へ対応したエンジンを開発することができましたが、もしこれが認められていなかったら、スズキは企業存続の危機に瀕していたと言われています。

1978年にスズキ初の4サイクル400ccエンジンを搭載した「GS400」
1978年にスズキ初の4サイクル400ccエンジンを搭載した「GS400」

 そうしたなかで、1976年にスズキ初の4サイクル400ccエンジンを搭載した「GS400」と、同じくスズキ初の4サイクル750ccエンジンを搭載した「GS750」が発売されました。

 すでにほかの国産メーカーから多くの4サイクルエンジン搭載モデルが発売されていたなかで、最後発となったスズキは失敗の許されない状況でしたが、主力市場となっていたアメリカで好評を博したことで、その後多くのモデルが4サイクル化を果たすことになりました。

※ ※ ※

 1979年には軽自動車の「アルト」が爆発的なヒットを見せ、1980年代のスズキの大躍進の基礎を築きます。また、1981年にはアメリカの自動車メーカーのGMとの提携も行われ、小型乗用車づくりのノウハウを吸収しました。

エアロフルカウルを装備し、精悍なレーサー風スタイルとして発売された「GSX-R750」
エアロフルカウルを装備し、精悍なレーサー風スタイルとして発売された「GSX-R750」

 一方、バイクでは「GSX750S(カタナ)」や「GSX-R」などの大排気量モデルが発売されるなど、1980年代になると、スズキのなかでバイクとクルマのキャラクターの違いが浮き彫りになっていきます。

【画像】1960年から80年代のスズキ車を画像で見る(15枚)

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