ホンダにとって海外初ヒットモデルとなったのは、大国アメリカで小さなバイク「CA100」だった
ホンダの海外進出第一歩を支え、アメリカの二輪市場を変えることにもなった「CA100」は、画期的な広告戦略とともに「Honda」の名を広めた「素晴らしき人に出会える」素敵なバイクでした。
ザ・ビーチ・ボーイズも歌った、北米に渡った紅白のスーパーカブ「Honda 50」
1958年の発売開始以来、たちまち大ヒット作となったホンダ「スーパーカブC100」は、日本の二輪車市場を席巻しホンダに巨大な利益をもたらしました。翌1959年、ホンダはさらなる成長を目指し、海外市場へ二輪車の輸出を開始します。

ホンダがまず選んだ市場は北米でした。当時のアメリカ人の生活レベルは豊かで輸出先としては魅力的だったのです。その一方で、アメリカのバイクライダーはアウトローがほとんどで、年間6万台しか売れていない、難しい市場でもありました。
ホンダの成功を知る現在の目線で見れば、潜在的巨大市場がホンダの上陸を待っていたわけです。
最初にアメリカへ送り込んだバイクは、「ドリームC75」(305cc)、「ドリームC70」(250cc)、「ベンリィC90」(125cc)、「ホンダ50(スーパーカブC100)」などです。しかしホンダ経営陣が予想した通り、大型車が中心のアメリカでは、すぐにはヒットしませんでした。
そんな中で好評だったのが、アメリカでは「Honda 50」の名称でラインナップされた「スーカーカブC100」です。

日本では生活の足として爆発的に普及した実用車の「スーパーカブ」が、アメリカでは玩具的モビリティとして好まれたのです。学生が街や広い大学構内を走り回るにもちょうど良いサイズ感であり、アルバイトを頑張れば手の届く価格帯、クリスマスプレゼントとして両親から贈ってもらう学生も多くいました。
アメリカで予期せぬ人気モノとなった「ホンダ50」は、1962年に2人乗りのダブルシートを装備した、アメリカ向けの輸出専用車「CA100」となって発売されます。
外観はポップな赤と白のカラーリングで、ツートンのダブルシートなど、国内版の「C100」とはだいぶ異なりますが、基本的な構造は「C100」と変わらず、排気量49ccの空冷4ストローク単気筒OHVエンジン、自動遠心クラッチ付きの3速ミッションもそのままでした。

アウトドアレジャーやハンティングなどに使用するため、ピックアップトラックやキャンピングカーに積んで移動し、目的地で降ろして走り回る、というアメリカンスタイルの楽しみ方にも合っていました。
その後、メジャーなグラフ誌である「タイム」や「ライフ」などに「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」の広告を展開し、ホンダと「CA100」がアメリカ国内で大ブームとも言えるほどポピュラーになって行きます。
そして「Honda 50」をテーマにした「ザ・ビーチ・ボーイズ」の「リトル・ホンダ」(1964年)という楽曲が全米ヒットチャートTOP10に入るなど、アウトローの悪いイメージだったアメリカの二輪市場をも大きく変えて行ったのです。

アメリカ国内でもメジャーなバイクブランドとなった「Honda」はその後、「CB750FOUR」や「GL100」などの輸出で大型車も次々とヒットし、名実ともに世界一のバイクメーカーとなります。
それは「CA100」がアメリカの人々にバイクの楽しさを伝えた、大きな成果でした。
■ホンダ「CA100」(1962年)主要諸元
エンジン種類:空冷4ストローク単気筒OHV
総排気量:49cc
最高出力:4.3PS/9500rpm
車両重量(乾燥):55kg
燃料タンク容量:17リットル
フレーム形式:パイプ/鋼板プレス連結フレーム
【取材協力】
ホンダコレクションホール(栃木県/モビリティリゾートもてぎ内)
Writer: 柴田直行
カメラマン。80年代のブームに乗じてバイク雑誌業界へ。前半の20年はモトクロス専門誌「ダートクール」を立ち上げアメリカでレースを撮影。後半の20年は多数のバイクメディアでインプレからツーリング、カスタムまでバイクライフ全般を撮影。休日は愛車のホンダ「GB350」でのんびりライディングを楽しむ。日本レース写真家協会会員