「伊賀越え」ゆかりの地をバイクで巡る 穴山梅雪が命を賭して家康を守った「草内(くさうち)の渡し」とは

NHK大河ドラマ『どうする家康』では、松本潤さんが演じる徳川家康が数々の困難やピンチを乗り越える姿が描かれています。家康にとって人生最大のピンチだったとも言われる「伊賀越え」のスポットをスーパーカブで巡ります。武田を見限った穴山梅雪が命を落としたとされる「草内(くさうち)の渡し」を訪れました。

つねに危機一髪、ギリギリで難を逃れて進む道

 徳川家康の三大危機と言われているのが「三河一向一揆」(1563~1564年)、「三方ヶ原の戦い」(1573年)、そして「伊賀越え」(1582年)です。織田信長が明智光秀の謀反で死に追いやられた「本能寺の変」によって、堺を見物をしていた家康一行は命を狙われることになります。国(三河)へ戻るための退路を塞がれ、少人数で決死の逃避行となったのが、世に言われる「伊賀越え」です。

家康と家臣たちが木津川を渡ったとされる「草内の渡し」には、ここが「伊賀越え」の道だったことを示す解説板や道標が立つ
家康と家臣たちが木津川を渡ったとされる「草内の渡し」には、ここが「伊賀越え」の道だったことを示す解説板や道標が立つ

 堺から信長の上洛に合わせて京へ戻る予定だった家康は、先見を担った本田平八郎(忠勝)が道中に出会った呉服商の茶屋四郎次郎から、「本能寺の変」のことを知らされました。

 平八郎ははすぐさま家康の元に引き返し事態を伝え、一行は「岡崎城」へ向かうため、大きな街道を避けて山の道を分け入り進みます。そのゆかりの地をスーパーカブで辿ります。

 今回は伊賀越え1日目の行程である大阪府枚方市の「尊延寺(そんえんじ)」から、京都府京田辺市の「普賢寺(ふげんじ)」へ、そして木津川を超える「草内(くさうち)の渡し」を訪れました。

「伊賀越え」の序盤に家康たちが立ち寄ったと言い伝えられている、大阪府枚方市の「尊延寺」
「伊賀越え」の序盤に家康たちが立ち寄ったと言い伝えられている、大阪府枚方市の「尊延寺」

 落ち武者狩りがウヨウヨしている危険な地帯で、家康一行の別働隊として穴山梅雪(武田信玄の姉の子。武田勝頼から離反)も木津川を渡ろうと試みたという説があります。

 落ち武者狩りが見張っている中、時間差で行動した穴山の別働隊が功を奏し、本体は無事に難関を乗り越えて川を渡ったそうです。一説によれば、家康たちは商船に乗り込んで危機を脱したとか。

 そして1日遅れで川を渡ろうとした穴山は、ここで敢え無く討たれ、亡くなりました。

京都府京田辺市にある「普賢寺」。「本能寺の変」で危険地帯となった京を避けるように、大阪枚方市の「尊延寺」東の山中を経てこの寺にも寄ったとされている
京都府京田辺市にある「普賢寺」。「本能寺の変」で危険地帯となった京を避けるように、大阪枚方市の「尊延寺」東の山中を経てこの寺にも寄ったとされている

 穴山梅雪の役を、NHK大河ドラマ『どうする家康』では俳優の田辺誠一さんが、『真田丸』では榎木孝明さんが演じました。

『どうする家康』では「長篠・設楽原の戦い」で武田勝頼に撤退を進言しながらも受け入れられず、その後も武田からの離反を想像させるフラグが立っていた人物です。

のどかな風景が広がる河川敷の光景。少年たちが野球に熱中していた
のどかな風景が広がる河川敷の光景。少年たちが野球に熱中していた

 最後は家康の身代わりとなって散った形となりましたが、穴山ではなく、もし家康がここで討たれていたら、その後の日本は現在とは異なる姿の国であったかもしれません。

 そんな運命の分かれ道となった川のほとりでは、少年野球の元気な掛け声が響き渡っていました。

【画像】「伊賀越え」で家康が辿った道を見る(13枚)

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