400年の時を経て残る「穴太積み」 大分県「角牟礼城」を訪ねる バイクで往く城跡巡り
大分県玖珠(くす)町に残された「角牟礼(つのむれ)城」は、1280年に構築されたとされる山城です。戦国時代、より強固な城として確立し、難攻不落と称された名城の跡には、三の丸付近までバイクで行くことができます。
強固な山城に「穴太積み」アリ!?
大分県の玖珠(くす)町に残された「角牟礼城(つのむれじょう)」は、1280年に構築されたとされる山城です。戦国時代、より強固な城として確立し、難攻不落と称された名城の跡には、三の丸付近までバイクで行くことができます。
標高576m、険しい崖に囲まれた山間部に「角牟礼城」はあります。大分県竹田市の「岡城」も断崖絶壁を利用した強固な城として名高く、猛将の島津義弘を撃退したことでも知られますが、ここ玖珠町の「角牟礼城」も1586年から1587年の戦いで落城しなかったことで知られます。
城主の大友氏は豊臣秀吉により失脚させられ、代わりに城を治めたのが毛利高政(もうりたかまさ)でした。1594年から1600年にかけて城を整備した際に構築されたのが「穴太(あのう)積み」の石垣です。これは野面積(のづらづみ)と言われる、ほとんど加工されていない自然石を積み上げる工法で、石同士の隙間には「間詰石」と呼ばれる小石を詰めています。
「穴太積み」は野面積みの一種ですが、積み石の表面から3分の1くらい奥のところへ重量がかかるように積まれており、一見雑多な積み方に見えて、じつは安定性が抜群とのこと。この工法は戦国時代に活躍した石積み職人集団「穴太衆」によるものだそうです。
バイクを駐車場に置き、本丸を目指して登ります。まず最初に到着する三の丸辺りから、穴太積みの石垣が見られます。三の丸は三方を石垣で囲まれた曲輪(くるわ・区画された空間)で、石垣の角に檜台の遺構も残っています。二の丸跡、二の丸西曲輪も残されており、石垣だけでなく土塁なども残されています。
本丸に近づくと「切岸(きりぎし)」と呼ばれる、人口の垂直の崖が見えてきました。容易に本丸へ登頂できないようにする防御施設です。
本丸へは「虎口(こぐち)」という出入り口を登ります。階段状の遺構が残されていたようですが、現在は砂利が敷かれ、なだらかな坂になっています。本丸は標高576mの「角埋山(つのむれやま)」の山頂です。訪れたときは何やら工事中のようでしたが、完成が楽しみです。