標高約583mの山上に!? 秀長の大和支配を支えた“日本三大山城”のひとつ「高取城跡」へ 『豊臣兄弟!』ゆかりの地をバイクで巡る旅
羽柴秀長(はしばひでなが=のちの豊臣秀長)が大和国(やまとのくに)を任された時代、その支配を支えた山城のひとつが「高取城(たかとりじょう)」でした。「郡山城(こおりやまじょう)」を中心とした領国経営のなかで、南大和を押さえる拠点となった城跡をバイクで訪れました
山上に残る巨大城郭の石垣
奈良県高市郡高取町の高取山(たかとりやま)に残る「高取城」は、「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」(岡山県)、「美濃岩村城(みのいわむらじょう)」(岐阜県)と並び、「大和高取城(やまとたかとりじょう)」として日本三大山城のひとつに数えられています。
標高は約583mで、麓から本丸付近までの比高は約390mともいわれ、実際に訪ねてみると、山上にこれほど大きな城郭が築かれていたことに驚かされます。現在は天守や櫓などの建物は残っていませんが、山中には石垣や郭、虎口などの遺構がよく残り、かつての規模を想像するには十分すぎるほどです。
城の始まりは、南北朝時代の元弘2年(1332年)、南朝方の豪族・越智邦澄(おちくにずみ)が築いた山城と伝わります。
その後、戦国期を経て織田信長の命により一度は廃城となりましたが、天正12年(1584年)に筒井順慶(つついじゅんけい)によって復興されたと伝えられています。
その翌年の天正13年(1585年)に、羽柴秀長(のちの豊臣秀長)は大和・和泉(いずみ)・紀伊(きい)を領する豊臣一門最大級の大名となりました。
秀長の本拠となったのは「郡山城」でしたが、「高取城」もその支配体制のなかに組み込まれます。つまり「高取城」は、「郡山城」を中心とした領国支配を南大和側から支える重要な山城だったと見るのが自然でしょう。
秀長の大和支配期には、家臣である本多氏らによって本格的な改修が進められたとされます。山城でありながら、随所に石垣をめぐらせた近世城郭へと姿を変えていった点が、この城の大きな特徴です。

登城路を進むと、山道の先に突如として高い石垣が現れます。森の中に眠る遺跡というより、山そのものを要塞化したような迫力です。
二の門、壺阪口門跡、猿石、国見櫓跡、本丸跡へと歩みを進めるほどに、山上の城でありながら、ここが実戦を意識した本格的な城郭であったことを感じます。
また、城の石垣には周辺の古墳から運ばれたと考えられる転用石も使われています。飛鳥地域に近い土地ならではの歴史の重なりと言えるでしょう。古代の石が、戦国から近世の城郭に組み込まれているという事実は、この地域が長い時間をかけて、重要な場所であり続けたことを物語っています。

バイクで城跡を巡る旅は、目的地に着くまでの道のりも楽しみのひとつです。「高取城」は山城だけに、登城には歩く時間と体力が必要になります。
麓の町から山へ向かう道をバイクで走り、木々に囲まれた登城路から歩いて石垣が現れる瞬間までを含めて、訪ねる価値のある城跡だったと感じることができました。
秀長が大和を治めるうえで何を重視したのかを、中心拠点の「郡山城」だけでなく、南大和を見渡す「高取城」にも目を向けると、その領国経営の立体感が見えてきます。
華やかな天守は残っていませんが、山中に残る石垣は、豊臣兄弟の時代にこの地が担った役割を、今も静かに語り続けています。

















