武田vs.北条による5万人超の激戦! 「三増峠」合戦場の史跡をバイクで巡る

「三増合戦場跡」をバイクで巡る。神奈川県愛甲郡愛川町三増にある看板のQRコードを読み取ると、この戦の詳しい情報が得られる
1965年の「三増合戦」から400年の節目に愛川町が石碑を建てた。敷地内には解説板や合戦当時の絵図が設置されている
1965年の「三増合戦」から400年の節目に愛川町が石碑を建てた。敷地内には解説板や合戦当時の絵図が設置されている
1965年の「三増合戦」から400年の節目に愛川町が石碑を建てた。敷地内には解説板や合戦当時の絵図が設置されている
1998年、ここから東へ130m離れた桑畑で、人骨と中世の渡来銭である六道銭が一緒に発見された。人骨は戦死者の可能性があり、地元では北条氏の家臣、勇将で知られる間宮善十郎の墓という説もあり、戦場碑の傍に埋葬されたという
現在の愛川中学校一帯は戦国時代「田代城」という山城だったという。城主は北条氏の家臣である内藤氏で、1569年10月に武田信玄の「小田原攻め」で落城したと伝えられている
古戦場の周辺には戦国時代を彷彿させる地名が残る。「馬渡大坂」もそのひとつ
武田信玄が風林火山の旗を立てたと伝えられる松の木は、現在はゴルフ場の敷地内にある。信玄は高台を中心に陣を張り、自らは麓で本陣を構えて北条軍を迎え撃ったと伝わる
往時の大木であった松は1923年の火災で焼けてしまい、現在は3代目の松が石碑と共に残されている。石碑は1928年、史跡を残そうとする青年団の活動により建てられたもの
往時の大木であった松は1923年の火災で焼けてしまい、現在は3代目の松が石碑と共に残されている。石碑は1928年、史跡を残そうとする青年団の活動により建てられたもの
「三増合戦」の史跡をバイクで巡る。神奈川県愛甲郡愛川町三増に建てられた看板のQRコードを読み取ると、この戦の詳しい情報が得られる
両軍で4000人もの戦死者をどう葬ったかは定かではないようだが、首塚が残されている。供養塔の碑は1706年に建てられたが、そこには「当時この辺りに戦死者の幽霊が出没するために念仏供養した」と刻まれているそうだ
武田信玄が風林火山の旗を立てたと伝えられる松の木は、現在はゴルフ場の敷地内にある。信玄は高台を中心に陣を張り、自らは麓で本陣を構えて北条軍を迎え撃ったと伝わる
高台から見下ろす光景。往時の武田軍の目にはどのように映っていたのだろうか

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