今は空しく、松籟のみが昔の悲劇を物語る「小谷城」へ バイクで往く城跡巡り

「小谷城」の「番所跡」に設置された「小谷城跡絵図」。南北800mの連続曲輪は壮大。この絵図の通りに散策する
歩いてすぐのところに「番所跡」の解説がある。それによると「遠方から見えず、間道も皆ここに集結する要所に位置し、登城者の検問をした所」とのこと
「小谷城跡」から琵琶湖方面を望む。正面に見える山は「小谷城」を攻めるために信長が築いたとされる「虎御前山城(とらごぜやまじょう)」があった場所
「番所跡」のすぐ上に「御茶屋跡」がある。主郭の最先端にある広い空間で、風雅な名前が付けられているが、実際には重要な軍事施設
「御茶屋」の一段上は「御馬屋」になっており、近くに「馬洗池」もある。この池は湧き水ではないものの、常時水が絶えなかったという
「黒金門」の手前にある「首据石」は、1533年1月に浅井家初代の亮政(あきまさ)が六角氏との対戦の際に、家臣の今井秀信(いまいひでのぶ)が敵方に内通していたことを知り誅殺。首をここに晒したそうだ。長政と信長の戦いとは関係ない
だんだん本丸に近づいてきた。ここは「黒金門」手前の「桜馬場(さくらのばば)」。「御馬屋」の上段、「大広間」の下段にある曲輪で、細長く左右二段からなる。イラストを見ると今まで歩いてきた場所の位置関係がイメージしやすい
だんだん本丸に近づいてきた。ここは「黒金門」手前の「桜馬場(さくらのばば)」。「御馬屋」の上段、「大広間」の下段にある曲輪で、細長く左右二段からなる。イラストを見ると今まで歩いてきた場所の位置関係がイメージしやすい
門は失われているが威容を放つ「黒金門跡」。大広間に設けられた重要な門で、鉄を打ちつけた扉であったと想定されている
本丸に最も近い屋敷が「赤尾屋敷」。浅井氏の重臣、赤尾氏は地位が高かったそうで、長政最期の地とされている
「黒金門」をくぐった先にある本丸の一段低い場所。「小谷城」最大の曲輪「大広間(おおひろま)」で、別名「千畳屋敷」。長さ約85m、幅約25m、前面には高さ約4mの石垣が積まれていた。井戸や土蔵も存在していたと言われる
「黒金門」をくぐった先にある本丸の一段低い場所。「小谷城」最大の曲輪「大広間(おおひろま)」で、別名「千畳屋敷」。長さ約85m、幅約25m、前面には高さ約4mの石垣が積まれていた。井戸や土蔵も存在していたと言われる
「浅井氏及家臣供養塔」には手を合わせてから先へ進んだ
いよいよ本丸に到着。南面に石垣が巡らされ、高さは約12m、南北約40m、東西約25mの広さ。落城寸前まで長政が居住していたと言われる
あらゆるところに「クマ出没注意!」の看板があり、なかなかスリリングな山城巡りとなった。次回訪れるときは万全にして挑む
本丸から山を下り、さらに番所から麓へ下る途中に「出丸跡」がある。ここは主郭尾根の最先端部にある曲輪で、独立した砦。つまり「小谷城」を守る最前線ということになる。二重の土塁、二段の曲輪が今でも残る
本丸から山を下り、さらに番所から麓へ下る途中に「出丸跡」がある。ここは主郭尾根の最先端部にある曲輪で、独立した砦。つまり「小谷城」を守る最前線ということになる。二重の土塁、二段の曲輪が今でも残る
本丸から山を下り、さらに番所から麓へ下る途中に「出丸跡」がある。ここは主郭尾根の最先端部にある曲輪で、独立した砦。つまり「小谷城」を守る最前線ということになる。二重の土塁、二段の曲輪が今でも残る
山の麓にあった手書きの解説板には、「……今は空しく、松籟のみが昔の悲劇を物語っている。」と記されていた
「小谷城跡」の「番所跡」には駐車スペースもあり、バイクを置いてここから徒歩で本丸を目指した。絵図の解説板とバイクを撮影し、駐車スペースへ移動した
本丸の北には巨大な堀切が残されている。長い山城を分断させる防御の機能はまた、浅井父子共々自害に追い込むことにもつながったのだろうか

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