建設当時の原形が遺る希少な近代化遺産「百々貯木場」を、バイクで訪ねた
日本には、水道や電気、交通など、幕末から第2次世界大戦までの間に、現在の生活基盤となった様々な建造物や施設があります。それらは「近代化遺産」と呼ばれ、現在でも大切に維持管理されているものもあり、観賞することができます。岐阜県に遺された「百々貯木場」をバイクで訪れました。
愛知県に遺る近代化遺産は、とても希少な施設だった
日本には、水道や電気、交通など、幕末から第2次世界大戦までの間に、現在の生活基盤となった様々な建造物や施設があります。それらは「近代化遺産」と呼ばれ、現在でも大切に維持管理されているものもあり、観賞することができます。岐阜県に遺された「百々貯木場(どうどちょぼくじょう)」をバイクで訪れました。

岐阜県と愛知県を流れる一級河川の矢作川(やはぎがわ)は、かつて上流で伐採した木材を下流へ運搬するために使われていたそうです。この「百々貯木場」は、大正7年(1918年)に、愛知県豊田市の豪商であった今井善三氏が開発したものと言われています。
河川の中流域に完全な形として残っている貯木場の遺構は珍しいもので、当時の木材輸送においては重要な役割を持っていたようです。川幅の狭い急流であった矢作川の上流部の山間で伐採された木材を1本ずつ川に渡す「管流し」という手法で輸送し、この貯木場のある川幅の広い中流域で集め、筏に組みなおしてさらに下流へ流送されたそうです。また、ここには用材に加工する製材所も備え、木材を振り分けていたようです。

木材を陸揚げすることなく集積できたこの施設は、大正時代中頃から昭和初期の間に活用されましたが、上流に越戸ダムが建設されたり、木材の運搬方法が鉄道や車の発達により変化したことなどから、わずか12年後の1930年にその役割を終えたそうです。
急速に近代化が進んだ時代を象徴しているとも言え、短い期間ではありながらも、当時はとても便利で大切な施設だったのでしょう。

役割を終えた「百々貯木場」は、解体されずにそのままの形で保存されたものの、長い間土砂に埋もれていたそうです。それを1988年、豊田市によって5年間をかけて修復作業が行なわれ、そして現在では史跡公園として整備されています。親子連れで賑わう「扶桑公園」の真横にありますが、貯木場跡は、普段はそれほど観光客が来ないようで、ひっそりと佇んでいました。
訪れた時には雑草も取り払われ、全景もしっかりと見ることができました。中には散策するための歩道も整備されているので、より間近に見ることができます。足場用の小堤や、上流から流れてきた木材を取り込んでいた樋門(ひもん)、製材所跡なども当時の形が遺されていました。

かつて賑わっていた貯木場は、今は静かに佇んでいるだけですが、その姿を見ることができたのは貴重な体験でした。