「秀長さん」で親しまれる町に残る領国経営 「スーパーカブ」で大和郡山の“城下町”へ 『豊臣兄弟!』ゆかりの地をバイクで巡る旅
奈良県大和郡山市に残る「郡山城(こおりやまじょう)」を歩き、その後「スーパーカブ」で城下町へ向かいました。外堀の跡や古い町割り、老舗の菓子店、羽柴秀長(はしばひでなが/のちの豊臣秀長)の菩提寺や墓所をたどると、この地に築こうとした領国経営が見えてきました。
城下町から見える秀長の町づくり
戦国時代の城というと、天守台や石垣に目が向きがちです。しかし奈良県大和郡山市に残る「郡山城(こおりやまじょう)」では、その城下町も見どころが続きます。
「スーパーカブ」で町中を巡ると、古い道筋や外堀跡、寺社、商家のたたずまいが次々に現れ、ここがかつて城を中心に整えられた町だったことを実感します。
なかでも印象に残ったのが、「秀長さんゆかりのまち」の文字が躍るのぼりでした。戦国武将を呼び捨てではなく、「さん」付けで迎える表現が面白いです。
当時の領民が秀長をどう見ていたかまでは断定できませんが、現在の大和郡山で、秀長が親しみを込めて受け止められていることは伝わってきます。

秀長は天正13年(1585年)、大和(やまと)・和泉(いずみ)・紀伊(きい)を治める大名として「郡山城」に入りました。兄・豊臣秀吉を支えた補佐役として知られますが、この地を歩くと、秀長が単なる武将ではなく、土地を治め、町を築く政治家でもあったことを感じます。
大和は古くから寺社勢力が強く、統治が簡単な土地ではありませんでした。そこで秀長は、城を整えるだけでなく、城下町の整備にも力を入れます。
奈良や堺などから商人や職人を呼び寄せ、同業者を町ごとに集め、商工業を保護したとされています。現在の城下町にも、柳町(やなぎまち)、本町(ほんまち)、魚町(うおまち)、塩町(しおまち)、紺屋町(こんやまち)など、商いや職能を思わせる町名が残ります。
「スーパーカブ」で路地を抜けると、当時の町割りが今の生活道路に重なっているように感じられました。
この城下町で重要なのが、後に「箱本制度(はこもとせいど)」と呼ばれる自治の仕組みです。特権を記した文書を納めた箱を町々が持ち回り、月ごとに町の運営を担ったとされています。税の免除や商業保護だけでなく、城下町を町人自身が支える仕組みでもありました。
秀長の町づくりは力による支配ではなく、人と商いを動かし、町そのものを機能させるものだったのかもしれません。
その空気を感じながら立ち寄ったのが、「本家菊屋(ほんけきくや)」です。ここに伝わる「御城之口餅(おしろのくちもち)」は、菊屋治兵衛(きくやじへえ)が秀長に従って大和へ来たことに由来すると伝わる名物です。
秀吉をもてなす茶会のために作られた菓子がもとになった、という話も残ります。またこれは伝承を含みますが、「城下町の入口で売られた餅」という名前の由来を知ると、菓子ひとつにも町の歴史が宿っているように思えます。
土産として買って帰り、食べるときな粉の香りと粒あんの甘さが上品で、さっぱりとした後味でした。

城下町には「修羅と石」の展示もありました。修羅とは、大きな石を運ぶために使われた木製のそりのような道具です。「郡山城」の石垣には石材の乏しい土地ならではの工夫が多く見られますが、実際に巨石を動かす道具を見ると、築城がどれほど大きな労力を必要としたのかが伝わってきます。
さらに「郡山八幡神社(こおりやまはちまんじんじゃ)」に参拝し、外堀跡をたどりながら秀長の菩提寺である「春岳院(しゅんがくいん)」へ向かいました。内部の撮影はできませんでしたが、地元の方に展示物を丁寧に説明していただきました。
近くには秀長の墓所である「大納言塚(だいなごんづか)」も残ります。「お願いの砂」の案内を眺めながら手を合わせると、秀長が今もこの町で大切にされていることが静かに伝わってきます。
「郡山城」は、石垣や天守台だけを見ても十分に面白い城です。しかし城の外へ出て、「スーパーカブ」で城下町をゆっくり巡ると、秀長の姿はさらに立体的に見えてきます。
職人を呼び、商人を集め、町に役割を与え、自治の仕組みを育てる。秀長が築こうとしたものは城郭だけではなく、今もこの土地に息づく「まち」だったのだと感じられました。















