まさかの「駅チカ城跡」!? バイクで往く城跡巡り 東京都中野区の消えた町名「城山町」

「城山公園」自体が城跡であった史実はないようだが、堀江氏の領地であったことは確か。坂に囲まれた立地を見ると、当時は「谷戸」の名の通り、谷あいの地であったのではないだろうか
バイクで訪れた「谷戸運動公園」はただ平地があるのみ。かつて城があった場所が公園になっていることはよくあるが、この平面な公園から城を想像するのはかなり難しい
「谷戸運動公園」戦国時代の土豪、堀江卯右衛門氏は越前朝倉氏の元から、武蔵国中野豪(現在の中野区)に農民と共に流浪してきたと言われている。その屋敷地がこの中野区中野一丁目にあったらしい
「谷戸運動公園」戦国時代の土豪、堀江卯右衛門氏は越前朝倉氏の元から、武蔵国中野豪(現在の中野区)に農民と共に流浪してきたと言われている。その屋敷地がこの中野区中野一丁目にあったらしい
公園を囲うように「城山」と名の付く通りが北側と東西にある
「谷戸運動公園」近くにある「城山公園」。名前からするとこちらの方が城跡らしく聞こえるが、じつは明治時代に設立した「東京府立農事試験場」の跡地
「谷戸運動公園」近くにある「城山公園」。名前からするとこちらの方が城跡らしく聞こえるが、じつは明治時代に設立した「東京府立農事試験場」の跡地
「谷戸運動公園」の南側、すぐ近くを通る「桃園川緑道」。元々は桃園川という、阿佐ヶ谷から高円寺、中野を経て神田川に流れる小川を暗渠にしたもの。戦国時代は堀の役割や重要な用水路だったのかもしれない
バイクで訪れた「谷戸運動公園」はただ平地があるのみ。かつて城があった場所が公園になっていることはよくあるが、この平面な公園から城を想像するのはかなり難しい。電話ボックスが懐かしい
「谷戸運動公園」の南側、すぐ近くを通る「桃園川緑道」。元々は桃園川という、阿佐ヶ谷から高円寺、中野を経て神田川に流れる小川を暗渠にしたもの。戦国時代は堀の役割や重要な用水路だったのかもしれない

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