家康公ゆかりの地をバイクで巡る旅 徳川と武田が激しく攻防した「二俣城」に残されたものとは

本丸の奥には天守台、石垣、土塁などが残る。石垣は「浜松城」同様の「野面積み(のづらづみ:自然石を加工せずに積み上げる工法)」と、隅石に「算木積み(さんぎづみ:直方体の石の長辺と短辺を交互に積合せる工法)」が用いられている
本丸の奥には天守台、石垣、土塁などが残る。石垣は「浜松城」同様の「野面積み(のづらづみ:自然石を加工せずに積み上げる工法)」と、隅石に「算木積み(さんぎづみ:直方体の石の長辺と短辺を交互に積合せる工法)」が用いられている
紅葉の季節は外していたが、紅い落ち葉と石垣だけの天守のコントラストが印象的だった
二の曲輪(くるわ)と蔵屋敷間にある堀切(ほりきり)の跡
城の構造や歴史、歴代城主、縄張り図などが解説板に書かれていた。信康の自刃事件は、信康と母の築山(つきやま)御前が武田氏と通じていたことを理由として、織田信長に切腹を命じたとされている
城の構造や歴史、歴代城主、縄張り図などが解説板に書かれていた。信康の自刃事件は、信康と母の築山(つきやま)御前が武田氏と通じていたことを理由として、織田信長に切腹を命じたとされている
「二俣城跡」からわずかな距離に「鳥羽山城跡」がある。こちらは「鳥羽山公園」として整備されている
「二俣城跡」の入口にある看板から、徒歩でわずかなところに本丸がある
本丸へ続く階段を上がると石橋が現れる。橋を渡った先には「旭ヶ丘神社」が建つ
「二俣城跡」の看板を見つけて駐車。ここから徒歩でわずかなところに本丸がある
本丸へ続く階段を上がると目の前に石橋があった。橋を渡った先には「旭ヶ丘神社」が建つ
2009年から2015年に実施された丘陵全体の測量調査と発掘調査によって、「二俣城」の構造が明確になった
本丸の最奥にある天守台の石垣は、豊臣方の勢力下にあった堀尾氏の領有時期(1590~1600年)に築かれたものと考えられている

この画像の記事を読む

画像ギャラリー

最新記事