「小牧・長久手の戦い」 家康と秀吉が火花を散らした激戦地をスーパーカブで訪れた

「本地ヶ原(ほんじがはら)神社」の境内にある「兜神社」では、多数の戦死者を弔った所として伝えられている
「本地ヶ原(ほんじがはら)神社」の境内にある「兜神社」では、多数の戦死者を弔った所として伝えられている
いまでは駐車場となっている「小幡城跡」。長久手の戦いでは家康が修復し、三河との連絡用に活用したと言い伝えられている
いまでは駐車場となっている「小幡城跡」。長久手の戦いでは家康が修復し、三河との連絡用に活用したと言い伝えられている
家康方についた城兵230名が戦死したと伝わる「長久手城址」の解説板。現在この場所には石標が立つ
「木下勘解由塚」は、敗走中の三好信吉(豊臣秀次)を救い、自ら家康軍と戦い死んでいった木下兄弟を弔う場所
「木下勘解由塚」は、敗走中の三好信吉(豊臣秀次)を救い、自ら家康軍と戦い死んでいった木下兄弟を弔う場所
「木下勘解由塚」にある掲示板で見つけた「どうした長久手」の案内。「長久手市文化の家」で開催される「戦国創作劇」とのこと。家康と秀吉の心理戦を描いたもので興味深い
戦死者の山が築かれた長久手の惨状を目の当たりにし、「岩作村安昌寺(やざこむらあんしょうじ)」の雲山和尚(うんざんおしょう)が村人たちとともに埋葬し、塚を築いて供養したという
地元で神社として祀られている「富士社(富士浅間神社)」もまた、長久手古戦場の「御旗山」に建っている。三好信吉を破った先遣隊が敗走した際に救援に向かった家康の進軍地だ
地元で神社として祀られている「富士社(富士浅間神社)」もまた、長久手古戦場の「御旗山」に建っている。三好信吉を破った先遣隊が敗走した際に救援に向かった家康の進軍地だ
家康方についた城兵230名が戦死したと伝わる「長久手城址」を訪れた。現在は石標が立つ
「木下勘解由塚」は、敗走中の三好信吉(豊臣秀次)を救い、自ら家康軍と戦い死んでいった木下兄弟を弔う場所
戦死者の山が築かれた長久手の惨状を目の当たりにし、「岩作村安昌寺(やざこむらあんしょうじ)」の雲山和尚(うんざんおしょう)が村人たちとともに埋葬し、塚を築いて供養したという
地元で神社として祀られている「富士社(富士浅間神社)」もまた、長久手古戦場の「御旗山」に建っている。三好信吉を破った先遣隊が敗走した際に救援に向かった家康の進軍地だ

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