壮絶な兵糧攻め「三木の干し殺し」とは!? 23歳で自分の命と引き換えに民を守った武将の歌 『豊臣兄弟!』ゆかりの地をバイクで巡る旅
兵庫県三木市に残る「三木城跡」は、戦国史に名を刻む「三木の干し殺し」の舞台です。織田信長の命を受け、羽柴秀吉が行った兵糧攻めは約2年に及ぶ包囲戦となりました。城主・別所長治の決断と最期、そして城のその後をバイクで訪れました。
徹底した包囲網に絶望感しかない……
兵庫県三木市上の丸町に残る「三木城跡」をバイクで訪れました。「三木城」は、美嚢川左岸の台地上に築かれた平山城です。本丸、二の丸を中心に曲輪が広がっており、現在は「三木城跡上の丸公園」として整備されています。
現地の案内板によれば、東西約600m、南北約700mに及ぶ規模で、周囲を谷や堀で防御する構造だったとされています。15世紀後半、別所氏によって築かれたと伝わりますが、詳細な築城年は未確認です。
戦国時代、別所氏は東播磨を治め、五代当主・別所長治(べっしょながはる)は13歳という若さで家督を継いだ武将です。当初は織田信長と同盟関係にありましたが、後に中国地方の毛利氏に呼応して信長に背きます。この決断が、「三木城」を舞台とする大規模な戦い、「三木合戦」へと発展しました。

信長は家臣である秀吉に命じ、三木城攻めを開始します。天正6年(1578年)から始まった戦いは、力攻めではなく、城を完全に包囲して城内の食糧を枯渇させる「兵糧攻め」でした。
案内板の説明には、秀吉は周囲に多数の「付城(つけじろ)」や土塁を築き、「三木城」を孤立させたと記されています。
この徹底した包囲戦は、「三木の干し殺し」と呼ばれています。
城下への出入りを遮断され、城内では深刻な飢餓が進んだと伝えられていますが、具体的な飢餓の状況や被害の詳細については諸説あるようです。
約2年に及ぶ包囲の末、天正8年(1580年)1月、長治は降伏を決断します。条件は、城兵や領民の命を助けることでした。そして長治は一族とともに自害します。享年23とも伝えられています。
長治の辞世の句として伝わるのが、「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかへて 我が身なりせば」という歌です。「今は恨みもない。領民の命が救われるならば、我が命など惜しくはない」という意味だと思われます。
若き当主が家臣や領民を思い、最期を迎えた姿は後世に語り継がれました。長治の命日である1月17日には、地元住民によって首塚のある「雲龍寺」(上の丸町)で「祥月命日法要」を営んでいるそうです。

落城後は池田輝政(いけだてるまさ)の支配下に入りましたが、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」後、池田氏の転封にともなって廃城となり、その後、元和元年(1615年)の「一国一城令」により完全に廃され、建物は姿を消しました。現在は本丸跡が公園として整備され、石垣や土塁の一部が往時をしのばせています。
案内板には「三木城跡及び付城跡・土塁」が国史跡に指定されていることが示され、本丸、二の丸、井戸跡、別所長治公石像の位置などが記されています。
現在の城跡は市街地からも近く、バイクでも比較的訪れやすい場所にありました。駐車場は広い平地でしたが、曲輪の高低差や土塁の跡を歩くと、かつてここが長期籠城に耐えたことを実感できました。
兵糧攻め、若き城主の決断、そして戦国の現実。「三木城跡」は美しい公園の姿とは裏腹に、壮絶な歴史を内包する場所でした。
秀吉の出世を語るうえでも欠かせない戦いの舞台が、今も静かに三木の地に残っています。













