てっぺんからは鳥取砂丘まで望める「鳥取城跡」 秀吉の兵糧攻めと巨大山城 「三ノ丸跡」に高校が!? バイクで往く城跡巡り
鳥取と言えば砂丘を思い浮かべるところですが、市街地の背後にそびえる「久松山」には戦国の山城と江戸時代の大城郭が重なる「鳥取城跡」があります。バイクで訪れ散策すると、鳥取のもうひとつの顔が見えてきました。
戦国から幕末を経て現在まで連なる山城の姿
鳥取県鳥取市東町にある「鳥取城跡」は、標高263mの「久松山」と、その山麓に広がっています。築城時期や築城者については諸説があり詳細は未確認ですが、戦国時代には因幡をめぐる争いの重要拠点となっていました。
天正9年(1581年)、毛利方の最前線となった「鳥取城」を羽柴秀吉の大軍が包囲します。城を預かったのは、吉川元春(きっかわもとはる)の一族である吉川経家(つねいえ)でした。しかし経家が入城した時点で、城内の兵糧は十分ではなかったとされています。
秀吉軍は「鳥取城」と周辺の出城を取り囲み、兵糧や援軍の搬入を断ちました。東側の山に土塁や空堀で守られた巨大な本陣、「太閤ヶ平(たいこうがなる)」を築きます。
こうして城内を極度の飢餓へ追い込んだことから、後に「鳥取の渇え殺し」と呼ばれるようになりました。

この包囲戦には、秀吉の弟・羽柴秀長も加わっていたとされています。「太閤ヶ平」周辺には「伝・羽柴秀長陣」と呼ばれる陣跡もあり、秀長が包囲網の一角を担った可能性を伝えています。
ただし、秀長が水軍を指揮し、日本海側の兵糧搬入路や、北側の退路を単独で完全に遮断したという具体的な役割については未確認です。秀長の陣と伝わる遺構が存在することと、作戦上の詳細な担当は分けて考える必要がありそうです。
数カ月に及ぶ籠城の末、経家は城兵や民衆の助命を条件に降伏し、自ら命を絶ちました。
現在も鳥取で経家が敬意を集めているのは、自身の命と引き換えに多くの人々を救ったためです。いずれにしても、同じく秀吉が兵糧攻めで「三木城」を陥落させてから約1年半後、「鳥取城」の攻略も成功していたのです。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」後、池田長吉(いけだながよし)が入城し、城内の改修を進めました。現地の解説板によれば、本格的な石垣の導入は秀吉配下の宮部継潤(みやべけいじゅん)が城主となった、天正8年(1580年)以降とされます。
その後、池田長吉の時代までに、現在の「天球丸」に相当する階段状の曲輪が整備されました。
元和3年(1617年)に池田光政(いけだみつまさ)が32万石で入封すると、大藩の居城として再整備されます。「天球丸」はそれまでの狭い曲輪を取り込むように拡張され、江戸時代中頃以降には石垣の崩落を防ぐ補強も行われました。
現地の解説板に描かれた構造変遷を見ると、戦国末期から幕末まで、石垣が何度も積み直されてきたことが分かります。
「天球丸」の名称は、池田長吉の姉である「天球院」が、この曲輪に造られた居館に住んだことに由来します。現在は石垣を補強するために築かれた、球面状の「巻石垣」が復元されており、その独特な姿は「鳥取城跡」を代表する見どころです。

城内を進むと、「太鼓御門」の石垣が現れます。かつて門に太鼓が備えられ、時刻を知らせていたことが名称の由来とされています。
御門から二ノ丸、三ノ丸へ続く石垣は見応えがあり、山城という先入観を覆すほど大規模です。そして驚かされたのが、三ノ丸跡を中心とする一角に、鳥取県立鳥取西高等学校が建っていることでした。
訪れたのは平日の朝だったため、生徒や教職員が石垣や堀のそばを通って登校しています。全国各地の城跡を巡ってきましたが、現役の学校と大規模な城郭遺構がこれほど自然に共存する光景は新鮮でした。
「山下ノ丸(さんげのまる)」(山麓エリア)を散策してから、「山上ノ丸(さんじょうのまる)」=「久松山」の頂上を目指します。ところがこれは、散策というより本格的な登山でした。
急な石段や岩場が続き、早朝にもかかわらず多くの登山者とすれ違います。歩きやすい靴と飲み物は欠かせませんが、事前の情報収集不足でした。普段の城跡巡りよりも比較的軽装で行ってしまったことを後悔しました。
息を切らして山頂へ到着すると、鳥取市街と平野が眼下に広がり、鳥取砂丘と海まで臨むことができます。「山上ノ丸」には本丸や二ノ丸、三ノ丸などの曲輪が築かれ、天守櫓や月見櫓も存在したとされます。
中世の山城と、池田家による近世城郭がひとつの場所に混在していることこそ、「鳥取城」最大の特徴でしょう。
秀吉の兵糧攻め、秀長の陣、池田家32万石の石垣、そして城内を通学する高校生たち。戦国から現代までの時間が重なる、他ではなかなか見られない城跡でした。鳥取砂丘と併せて、ぜひ訪れておきたい歴史スポットです。
























