「アメリカの象徴」ハーレーダビッドソン本社で活躍する最初にして唯一の日本人デザイナー ダイス・ナガオ氏にインタビュー ~前編~

アメリカを代表するバイクブランドといえば、恐らく多くの人が「ハーレーダビッドソン」を一番に思い浮かべるでしょう。現在では120年近い歴史を持つ同社ですが、そんな伝統あるブランドのデザイナーとして日本人が活躍しています。ここではハーレーダビッドソンでデザイナーとして活躍する「ダイス・ナガオ」氏に話しを伺ってみました。

最初にして唯一の日本人デザイナー

 1903年、アメリカのウィスコンシン州にある都市、ミルウォーキーでウイリアム・S・ハーレーとアーサー/ウォルター/ウィリアムのダビッドソン兄弟によって設立され、現在も続くメーカーであるハーレーダビッドソン。現在はインディアンモーターサイクルが復活し、「アメリカ唯一のバイクメーカー」という形容詞こそ謳えませんが、それでもなお、ハーレー社は「イチ・バイクメーカー」の枠を超え「アメリカ」という国そのものを象徴する存在といっても過言ではありません。

ダイス・ナガオ 1971年生まれ。千葉県出身。地元にある流通経済大学付属柏高校を卒業後に留学し、アイオワ州の大学を経てカリフォルニアのパサディナにあるアートカレッジセンター、トランスポートデザイン科で四輪のデザインの基礎を学ぶ。2002年、卒業後には米国法人の“Honda R&D Americas”モーターサイクル部門に入社し、2012年からハーレーダビッドソン本社に勤務。最初にして唯一の日本人社員となる。また入社後は2016年モデルのスポーツスター・アイアンを皮切りに数々のモデルのデザインを担当。ダイナ、ミルウォーキーエイトともにヒットモデルとなったローライダーSや2017年以降のツーリング系モデルCVO(カスタムヴィーグルオペレーションの略 H-D社の純正コンプリートカスタム)など生み出した車両は多岐に渡る。H-D社の役職はリードデザイナーで本名は長尾大介。(写真提供:Harley-Davidson, Inc.)

 1969年1月7日から自転車やスポーツ用品、ボーリング場のピンセッターなどを生産するAMF(American Machine Foundry)が親会社となり、1981年6月23日に「BUY BUCK(会社の買戻し)」されるまでの時期があったものの、基本として創業以来、アメリカでモーターサイクルを生産し続けている唯一のメーカーがハーレーであり、まさに「アメリカそのもの」を象徴する存在といえるのですが、そのハーレー本社に勤務し、デザイナーとして活躍する最初にして唯一の日本人がいます。それがここにご紹介させて頂く「ダイス・ナガオ」こと長尾大介氏です。

 ここでは2012年にハーレー社に入社してから“スポーツスター・アイアン”や“ダイナ・ローライダーS”など数々のヒットモデルのデザインを担当したダイス・ナガオ氏に、インタビューの前編として渡米の経緯や米国の象徴たるハーレー社に入社した理由、またバイクを好きになったキッカケなどについて伺ってみました。

──まずナガオさんがバイクに興味を持ったキッカケを教えて頂けませんか?

 幼少期からバイクとクルマ、そして絵を描くことに、とにかく夢中でした。周りの友達がマンガを買っていた頃も私はバイク雑誌やクルマ雑誌を読み漁っているような子供でした。あまりに繰り返し読んでいたので今でも文面を覚えているくらいです。でもじつは直接的にバイクが好きになったキッカケっていうのが何もなく、あえて言えば生まれついてのDNAレベルのような気がします。

 両親からの影響もなかったですし、ふと気が付いたら大好きだったというべきでしょうか。まだハイハイしていた赤ん坊の頃、いつの間にかトラックの下とかに潜り込んで手を真っ黒にして出てきて周りの大人たちを驚かせるような子供だったとも両親から聞いています。その親の反対を押し切って小学校6年生で初めてモトクロスのバイクを買ってからが私の“バイク人生”のスタートですね。

──それがまたなぜ、アメリカでハーレーのデザイナーになるという道に繋がっていったのでしょうか? 渡米したキッカケなどを教えて頂けませんか?

 高校生の時、かなり大それた夢ですけど、じつはF-1レーサーになりたかったんです。高校を辞めてその夢に向かいたかったんですけど、学校の先生や両親に全力で止められました(苦笑)。今、思えばあの時、止めてもらって良かったと思いますね。そういう極端な性格だからか高校の時は得意だった英語ばかり勉強していた偏った学生でしたね。

──高校を卒業した後は進学したんですよね?

 好きだった英語を生かそうと思ってアメリカの大学に進学を決めたんです。子供の頃から絵を描くことも好きだったので最初に入学したアイオワの大学では美術を専攻して、この時期に将来の夢として“バイクのデザイナーになりたい”とおぼろげながら想像していました。でもこの大学時代は言葉や文化、人種の違いなど色々な面で苦労しました。言い方は悪いかもしれませんが、何せ中西部の田舎街。そういう場所だと多くの人が“日本”という国がどこにあるのかも分からないんですね。そういう現実にショックを受けました。

「本来は口下手なのでインタビューで長々と語れるタイプではないのですが……スケッチにこだわるのも、それが理由かもしれません」というダイス・ナガオ氏ですが、たしかにそんなポリシーを感じさせるのが彼によるデザインスケッチ。このように分かりやすく車両イメージが伝わるものとなっています(資料提供:Harley-Davidson, Inc.)

──それはどういう部分でしょうか?

 あくまでイチ留学生の立場から見た当時の感想なんですが、世界というかアメリカという国の中では日本という国の存在がそれほど重要に見られていなかったんです。私自身は日本人としての誇りを抱いて渡米したもののアメリカの田舎……すなわちあの国の大部分では日本という国に意識を向けている人はほとんどいないんですね。

 そのアイオワの大学に在学中、バイクのデザイナーになりたいという意思が固まりつつあったんですけど、その時に雑誌を見てカリフォルニアにあるアートセンターカレッジの存在を知ったんです。そこを訪れた時は大きな衝撃を受けました。プロになるための確固たるカリキュラムや在学生の作品の創造性……イマジネーションとクリエイションの想像と創造の高さとでもいいましょうか。世界のトップを見た気がしました。それでアイオワの大学を卒業した後にアートセンターに入学してトランスポーテーション科で学んだんですけど、ここではカリキュラムがクルマのデザインのみだったのでバイクに関しては独学でプロジェクトを進めていましたね。

──それから社会に出て仕事を始めたんですね? それはアメリカでしょうか?

 はい。アメリカです。アートセンターを卒業する時に、アイオワから感じていた“世界の中の日本”という意識が残り続けていた影響と言っていいのかもしれませんが当時、ホンダが世界GPやF-1などで活躍していたことが私の日本人としての誇りになっていってたんです。だから大学を卒業して、まず2002年に入社したのが現地の“Honda R&D Americas”のモーターサイクル部門です。

──そのホンダからハーレー、というキャリアの変化のキッカケは何でしょうか?

 ホンダで勤務して10年くらい過ぎた時に、デザイナー仲間から“ハーレーがデザイナーを探している”という情報を聞いたんです。日本人として誇りを抱いて入社したホンダでしたが、“私の実力がアメリカの代名詞といえるハーレーでどこまで通用するのかを試したい”という気持ちになったんですね。

2016年にナガオ氏がデザインしたスポーツスター・アイアンとハーレーダビッドソン社の面々。ちなみにデザインチームは現在、26名で役職が4段階に分かれているとのこと。エントリーレベルがアソシエート、次がデザイナー、その上がシニアデザイナーで更に上の役職がリードデザイナーとなっており、ナガオ氏はリードデザイナーとのこと。また車体プラットフォームごとにプロジェクトを統括するマネージャー数名、そしてデザイン室長によってニューモデルのデザインが進められるそうです(写真提供:Harley-Davidson, Inc.)

 このハーレーというメーカーの凄い点は単なるバイクメーカーという位置を超えて、“アメリカの文化そのもの”を創造してきた会社という部分です。日本で生まれ育ち、アメリカでキャリアを積む日本人の私にとって、これは一世一代のチャンスだと思ったんですね。入社してからはやはりハーレーの凄さというものをまざまざと感じていますよ。(後編に続く)

【了】

【画像】ダイス・ナガオ氏による精巧なデザインスケッチの画像を見る(7枚)

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Writer: 渡辺まこと(チョッパージャーナル編集長)

ハーレーや国産バイクなど、様々な車両をベースにアメリカン・テイストのカスタムを施した「CHOPPER」(チョッパー)をメインに扱う雑誌「CHOPPER Journal」(チョッパージャーナル)編集長。カスタム車に限らず、幅広いバイクに対して深い知識を持つベテラン編集者。

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