歴代の武家が支配した要害「深沢城」へ バイクで往く城跡巡り

1960年に静岡県の指定史跡とされた「深沢城(ふかさわじょう)」は、大部分が個人所有の農地でありながらも散策道が整備されており、武田氏統治時代の堀跡などを見学することができます。

今川から北条、武田へと、歴代の武家が支配した「深沢城」

 1960年に静岡県の指定史跡とされた「深沢城(ふかさわじょう)」は、大部分が個人所有の農地でありながらも散策道が整備されており、武田氏統治時代の堀跡などを見学することができます。

静岡県御殿場市に遺る「深沢城跡」へ。地元関係者以外の車両の乗り入れは禁止されているため、バイクは邪魔にならないところへ停めて散策を開始。石碑と説明板が設置されていた
静岡県御殿場市に遺る「深沢城跡」へ。地元関係者以外の車両の乗り入れは禁止されているため、バイクは邪魔にならないところへ停めて散策を開始。石碑と説明板が設置されていた

 静岡県御殿場市にある戦国時代の「深沢城跡」にホンダ「スーパーカブ」で訪れ、その遺構を散策します。現地には「深沢城址碑」と史跡の説明板が設置されており、そこに書かれていたことを要約すると次の通りです。

・今から約460年ほど前の戦国時代に、駿河の今川(いまがわ)氏が築城したと伝えられている

・その後、小田原の北条(ほうじょう)氏が占領

・元亀元年(1570年)、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)が包囲、翌元亀2年1月3日、開城を迫り、その後武田氏が支配

・北条氏は奪回に失敗。武田氏の重臣の1人、駒井右京之進(こまいうきょうのしん)が城主として居城

・天正10年(1582年)、武田氏没落に際し、右京之進は城を焼いて退去

・天正12年(1584年)、徳川家康(とくがわいえやす)が織田信雄(おだのぶかつ)に加勢して、小牧山で豊臣秀吉と戦った際に、北条の押えとして三宅惣左衛門(みやけそうざえもん)を置いたが、それを最後として廃城となった

現在残っているのは武田氏が築いた仕様とされている。ふたつの川に挟まれた地形を活かした自然の要害に加え、三日月堀などの人工物で防御力を高めている
現在残っているのは武田氏が築いた仕様とされている。ふたつの川に挟まれた地形を活かした自然の要害に加え、三日月堀などの人工物で防御力を高めている

 まさに戦国時代を駆け抜けた城跡だということですが、有名武将達が目をつけただけあり、城としての機能が高かったのでしょう。

 武田信玄が北条氏に開城を迫った際に放ったとされる矢文は有名で、「北条家が上杉謙信に攻められた際に救ったのは武田信玄だ」と圧力をかけ、結果として無血開城に成功したそうです。

 なお、この城は抜川(ぬけがわ)と馬伏川(まぶせがわ)に挟まれた自然の台地を利用した「二鶴様式」で築かれているそうです。この二鶴様式と呼ばれるものがどんな形をしているのか、現地を歩いても分からなかったので後日調べてみると、曲輪(くるわ:平坦地)間の細い道の模様が、2羽の鶴がくちばしで繋がっているように見えることから名付けられたそうです。

堀の形を写真で表現するのが難しいが、鋭角に折れ曲がった三日月の形の堀がそこにあった。内側には民家が建っている
堀の形を写真で表現するのが難しいが、鋭角に折れ曲がった三日月の形の堀がそこにあった。内側には民家が建っている

 城への入口は「三日月堀」で、堀の形をよく見ると、まさに三日月のように鋭角に折れ曲がった堀が残されていました。

 さらに歩くと「馬出し」(いわゆる出入口)があります。左手の農地は「三の丸」とされていたところで、続く「二の丸」との間の道に、前述の二鶴様式の堀跡が残っていました。

「本丸」とされていたところまで歩くと、そこは一面の田んぼです。足を踏み入れないように注意しながら散策しました。

 戻り道には食料庫跡があり、現在の佇まいからはその痕跡を想像することは難しいでしょう。

開けた土地の「二の丸」と「本丸」は田畑として活用されている。なお、現在「二の丸」とされているところが「本丸」と見られているようだ
開けた土地の「二の丸」と「本丸」は田畑として活用されている。なお、現在「二の丸」とされているところが「本丸」と見られているようだ

 歴代の有名武将が大切にした城の跡を、現代の住人がその地形を活かし、なおかつ遺構を残した状態でしっかりと農業を営んでいることに、人間の逞しさや知恵を感じることができました。

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