家康公ゆかりの地をバイクで巡る旅 「桶狭間の戦い」で兵糧を運び込んだ「大高城」とは

「桶狭間の戦い」で活躍した松平元康(のちの徳川家康)ゆかりの「大高城(おおだかじょう)」の遺構を訪れました。

家康の活躍はここから始まった? 兵糧入れ成功、からの敗走

「桶狭間の戦い」で、今川方の将として活躍を見せた松平元康(のちの徳川家康)ゆかりの「大高城(おおだかじょう)」の遺構へ、スーパーカブで訪れました。

かつて「大高城」は二重の堀が張り巡らされていたと言われる。現在は「大高城址公園」として整備されている
かつて「大高城」は二重の堀が張り巡らされていたと言われる。現在は「大高城址公園」として整備されている

 1542年に三河(愛知県)で誕生した竹千代(のちの徳川家康)は、わずか6年後には尾張(愛知県)の織田信秀(おだのぶひで)に連れ去られて人質となり、その翌年は本来人質になるはずだった駿府(静岡県)の今川家の人質となり、幼少時から過酷な運命を強いられていたとも言えます。

 しかし武将としての才能は、おそらく若年時から光るものがあったのかもしれません。「海道一の弓取り」と呼ばれた戦国武将、今川義元(いまがわよしもと)の下で初陣を張り、1560年5月19日に「桶狭間の戦い」が起きます。

「桶狭間の戦い」ゆかりの地には「信長攻略 桶狭間の戦い 人生大逆転街道」として散策コースが設定されている
「桶狭間の戦い」ゆかりの地には「信長攻略 桶狭間の戦い 人生大逆転街道」として散策コースが設定されている

「桶狭間の戦い」と言えば、2万5000もの大軍を率いて尾張に侵攻してきた今川義元軍を、わずか4000人ほど(説によって3000人とも2000人とも言われる)の兵を率いた27歳の織田信長が奇襲によって勝利を収め、今川家を破滅に追い込んだ戦いとして知られています。その中で、家康は今川軍として局地的な成功を収めていたようです。

 当時の「大高城」は、尾張国知多郡大高村(現在の名古屋市緑区大高町)にある、東西106m、南北32mという規模の山城です。築城は室町時代(1504~1521年)と伝えられ、現在は「大高城址公園」として整備されています。

本丸跡には「城山八幡社」が収まる。毎年9月と年越しは住民の幸福を願う祭事が執り行なわれているようだ
本丸跡には「城山八幡社」が収まる。毎年9月と年越しは住民の幸福を願う祭事が執り行なわれているようだ

 今川の城として機能していた「大高城」周辺には、織田信長が圧力を与えるために築いた「丸根砦(まるねとりで)」と「鷲津砦(わしづとりで)」があり、いずれも跡地として残されています。

 桶狭間の戦いでは前日の5月18日に、若干19歳の家康がその「大高城」へ「兵糧入れ」をしたと伝えられていますが、前述のように織田勢の目が光っている中、包囲をかいくぐって運び入れに成功したことからも、家康の実力が伺い知れます。

 今川軍の盤石の戦いのように見えましたが、戦は予想外な方向へ動き、結果として今川が討たれ、家康は故郷の「岡崎城」へ決死の脱出を図ったわけです。「大高城」は今でも本丸や二の丸、内堀を往時のままに残していました。

「大高城」へ向かう途中で「秋葉社」という社を発見。昔の大高城下町のカギ形の辻(道路)がそのまま残されている光景も面白い
「大高城」へ向かう途中で「秋葉社」という社を発見。昔の大高城下町のカギ形の辻(道路)がそのまま残されている光景も面白い

 当時の信長も27歳と若く、超実力者の今川義元を討ち取ったこと自体が驚くべき事件ですが、19歳の家康が「兵糧入れ」を成功させたこともまた凄いことです。

 家康の大名としての成功の第一歩は、ここからすでに始まっていたのかもしれません。

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