【関ケ原の戦い】西軍の石田三成陣跡へ 家康公ゆかりの地をバイクで巡る旅
1600年10月21日(慶長5年9月15日)、現在の岐阜県不破郡関ケ原町を舞台に繰り広げられた“天下分け目の決戦”が、「関ケ原の戦い」です。東西それぞれの武将の陣地を巡るべく、まずは西軍、石田三成(いしだみつなり)の陣をスーパーカブで訪れました。
西軍の石田三成が置いた陣からの眺めは……
豊臣秀吉の死後、豊臣政権の内部分裂の様子はNHK大河ドラマ『どうする家康』でも描かれていました。やがて“天下分け目の決戦”へと発展する「関ケ原の戦い」の時、家康は58歳です。これまでスーパーカブで家康の生涯において要となる戦地などを多数巡って来ましたが、勝利も敗北も、幾多の窮地も体験し、それらを乗り越えて来た家康の存在感たるや、秀吉亡き世では凄まじいものがあったことでしょう。

「関ケ原の戦い」は、徳川家康を総大将とした東軍と、毛利輝元(もうりてるもと)を総大将として、石田三成、宇喜多秀家(うきたひでいえ)らが結成した西軍の陣営が、岐阜県の関ケ原付近で繰り広げた戦です。TV番組などでも多く紹介されている土地なのでイメージは掴めていましたが、実際に現地を訪れると、そこはまさに「盆地」でした。
かつて「壬申(じんしん)の乱」(672年)で勝利を納めた大海人皇子(おおあまのみこ)が、後に天武天皇となって東西両エリアの要衝である「不破(ふわ)」に関所を置いていたことからも、古の時代から関ケ原が「要の地」であったことが分かります。

現地には2020年にリニューアルオープンした「岐阜関ケ原古戦場記念館」があり、各陣地を巡る観光客も多く、平日にも関わらず大勢の人たちで賑わっていました。
今回の旅でも機動力に優れたスーパーカブが大活躍しました。各所の陣地を巡る際には小回りが効き、なにより戦国時代の陣地や城跡と、長年多くの人々に親しまれて来たスーパーカブの不変のデザインが不思議とマッチします。現地でも観光客から声を掛けていただきました。
さて、まずは西軍の代表格である石田三成の陣地に向かいます。すぐ近くにある「関ケ原の戦い 決戦地」で記念撮影。次から次へと人が訪れ、バイクで来ている人も見られます。
石田三成が陣を構えた笹尾山は盆地を見渡せる低山で、急な階段が待ち構えていました。麓に置かれている杖を使いながら、丘の上へ登ってみました。

戦に敗れ、後の11月6日に斬首された敗将の陣地から見える盆地は、秋の青空の下で少し物悲しくも見えました。現地に設置された解説板によると、石田三成率いる六千の隊は、合戦当日の午前1時頃に布陣したとのこと。戦いの火蓋が切られたのは午前8時頃。東軍の黒田長政(くろだながまさ)、細川忠興(ほそかわただおき)らの猛攻に対して、石田隊の島左近(しまさこん)が大活躍し、東軍を幾度も押し返したそうです。
しかし左近は黒田隊の射撃で負傷し、戦場から脱落します。これが合戦の行方を左右するひとつの鍵だったようで、TV番組『ブラタモリ』では詳しく解説されていました。
石田隊の陣地から黒田隊の砲火場は目視できるのですが、左近の陣地からはかなり遠く、とても射撃できるような距離ではありません。そこで長政は一隊を率いて笹尾山北側を迂回し、側面から攻撃したそうです。関ケ原の断層による起伏は潜伏や移動に適しており、左近に気づかれることなく至近距離から狙うことができたのだとか。

戦闘開始からわずか6時間ほどで決着。三成は決死の覚悟で踏みとどまり、奮闘したものの午後2時頃に壊滅。再起を期して背後の伊吹山へ逃れましたが捕縛され、最期は斬首となりました。
家康によるおびただしい書状による調略、小早川秀秋(こばやかわひであき)の東軍への寝返りなど、様々な要因が東軍勝利を引き寄せ、三成には分がなかったのかもしれません。しかし乱世の中で義を貫き通した三成の姿勢は近年評価が高まり、相当人気が高い人物だとも言われています。
陣地を張ったそれぞれの武将たちの生き様を掘り起こし、自分なりに検証し、想像してみるのも面白いかもしれません。