独自技術を誇る「盛岡城」の石垣!! 宮沢賢治や石川啄木も見上げたであろう14mの高石垣に見惚れる バイクで往く城跡巡り
全国に数万存在していたと言われる日本の「城」は、土で形成されていた時代から、戦国時代以降は職人の技術を活かした石垣が現れます。今回バイクで訪れたのは、岩手県が誇る石垣の名城「盛岡城」です。
花崗岩の壮大な石垣に夏の青空が映える!!
全国に数万存在していたと言われる日本の「城」は、土で形成されていた時代から、戦国時代以降は職人の技術を活かした石垣が現れます。岩手県が誇る石垣の名城「盛岡城」をバイクで訪れました。

不揃いな自然石を利用して匠の技で積み重ねる石垣作りの技術集団、滋賀県の「穴太衆(あのうしゅう)」は、城跡好きならば一度は聞いたことがあるかもしれません。
日本の西側から生まれた特殊技術は全国に広がったと言われていますが、城郭考古学で著名な千田嘉博先生によれば、「盛岡城」は「西の石垣技術を真似るのではなく、東北地方独自の技術で完成させた貴重な城」とのことです。
NHK特番『日本最強の城スペシャル』で「盛岡城」が紹介された際に、千田先生をはじめゲストや地元の人たちが「盛岡城」のことを熱く語っていたのが印象的で、いつか訪れたいと思っていたのです。
現地に設置された解説板を要約すると、次の通りです。
・盛岡藩初代藩主の南部信直(なんぶのぶなお)が1597年に築城を開始、翌年から本格工事が始まった
・豊臣家重臣の浅野長政(あさのながまさ)の助言により構築され、北上川と中津川の合流地点に突き出した丘陵に本丸、二の丸、腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築した
・内曲輪の北側も平坦にして堀で囲み、南部氏一族、藩の家臣たちの屋敷を配置した外曲輪を構築。さらに武士や町人たちの屋敷街(遠曲輪)も設けて総構えとしている
・1872年(明治5年)に陸軍省所管、1874年には内曲輪の建物の大半が取り壊される
・1906年(明治39年)に近代公園の先駆者、長岡安平(ながおかやすへい)の設計により、岩手公園として整備。2006年に開園100周年を記念して「盛岡城跡公園」という愛称をつけた

とにかく石垣が見事です。高さは最高14mもあるといい、夏の青空とのコントラストが素晴らしく、色々な場所を見つけては石垣の美しさに見惚れてしまいました。
東北地方としてはこれだけ大規模な石垣の城は珍しいそうですが、ここは元々花崗岩の岩山だったところで石の調達がしやすかったそうです。見ると確かに花崗岩が多く使われているのが分かります。
また、岩に杭を差し込んで割る時の「矢穴」の跡もたくさん残されています。この矢穴を見ると、当時の職人の息吹が感じられるようです。ところどころ矢穴同士を綺麗に合わせて組んでいる箇所もあり、NHK特番ではゲストが「デザイン性を重視してわざと矢穴を見せているようにも思える」と語っていました。
確かに、随所にデザインへのこだわりや美的感覚に優れた人たちの想いが残されているように思えました。どの角度から見ても、撮影しても絵になるのです。
かつて城から200mの距離に存在していた盛岡中学校の生徒には、有名な宮沢賢治や石川啄木がいました。少年時代の啄木は学校の窓から逃げ出して二の丸だった場所で昼寝をしたり、読書をしていたといいます。啄木はこんな歌を詠んでいます。
「不来方(こずかた:盛岡の呼称)の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心 啄木」
NHK特番でもこの歌碑が紹介され、それまで賑やかに話していたゲストやMCも思わずため息をつき、見事な青春の1シーンを切り取った歌に一瞬静まり返っていたようでした。
昔と変わらず空に向かって伸びる「盛岡城」の石垣を脳裏に焼き付けて、バイクが待つ駐車場に戻りました。





















