鎌倉時代から300年続いた「飛山城」を復元 LRTの駅名にもなっている栃木県宇都宮市の史跡公園へ バイクで往く城跡巡り
鎌倉時代の後半に築かれたと言われる「飛山城」は、豊臣秀吉の命で破却されましたが、平成の発掘調査によって数多くの成果が得られたといいます。復元された堀や橋、土塁などを見るため、ツーリングがてら栃木県宇都宮市の「飛山城史跡公園」を訪れました。
丁寧な発掘調査と復元がお見事。整備が行き届いた史跡公園を歩く
昔から馴染みのある地名が、実はかつての有力な武家の名前だったということはよくあります。栃木県の「宇都宮」や「芳賀」、「那須」などもまさにそれで、中でも宇都宮氏と芳賀氏は共に勢力を持った有力な家系だったようです。詳しい歴史が「飛山城史跡公園」内にある「とびやま歴史体験館」にありました。その一部を紹介します。

「飛山城」は芳賀氏の芳賀高俊(はがたかとし)によって、鎌倉時代後半(1293~1298年)に築城されました。それよりも遥か以前から宇都宮氏と芳賀氏は互いに手を組んで戦で功績を上げて源頼朝に尽くしたとのこと。その後、勢力を増していた宇都宮氏との関係をより密にするために城を築いたと考えられているそうです。
やがて南北朝の動乱の時代へ突入。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による鎌倉幕府打倒のための戦が1333年に勃発し、5月には鎌倉幕府が滅亡します。
南朝の後醍醐天皇と対立した足利尊氏(あしかがたかうじ)が北朝を擁立し、南北朝の激しい闘いが続きます。この動乱の中で宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)を補佐する芳賀高名(はがたかな)は北朝へ属することになり、1341年に南朝方の春日顕国(かすがあきくに)の猛攻により落城します。
対する北朝は、高師冬(こうのもろふゆ)を「宇都宮城」に派遣し、情勢を挽回。1343年には関東における南朝方の組織的な活動を終焉させ、春日顕国は捕縛・処刑されます。正確な日付は不明だそうですが、この情勢の中で芳賀高名が「飛山城」の奪還に成功します。
足利尊氏が作った室町幕府の時代、宇都宮氏と芳賀氏は勢力を伸ばしていきましたが、戦国時代になると両氏は群雄の狭間で揺れ動きます。
1549年、宇都宮尚綱(なおつな)が戦死すると、芳賀高照(たかてる)が那須氏と手を組み「宇都宮城」を占拠。対して芳賀氏の当主、高定(たかさだ)は尚綱の遺児、伊勢広綱(ひろつな)を擁して「真岡城(もおかじょう)」にこもり、「宇都宮城」奪還を狙います。1555年、高定が高照を「真岡城」で謀殺し、その2年後、広綱は7年ぶりに「宇都宮城」に帰還しています。
戦国時代は終焉に向かい、「飛山城」の重要性や地位が低下します。それは宇都宮氏が北条氏に対抗するために「多気城(たげじょう)」を築いて本拠地としたことで、芳賀氏の本拠地(真岡市)と宇都宮氏の本拠地を中継する「飛山城」の役割が薄れたからとのことです。
1590年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと「いらざる城は破却せよ」との命令を出し、「飛山城」は廃城となったのです。

実は発掘調査が行われるまで、1597年の宇都宮氏の滅亡と共に廃城になったと考えられていたそうですが、それよりも前に破却されていたことが分かったそうです。
発掘調査では土塁を崩して堀を埋めた痕跡が見つかっています。400年の眠りから目覚めた「飛山城」は、堀、木橋、門、掘立柱建物などを丁寧に復元しています。
整備が行き届き、詳しい解説も随所に見ることができる飛山城跡は、壮大な石垣や天守閣は無いものの、300年続いた城の息吹を確かに感じさせてくれたのでした。













