一見ただの公園だが……貴重な中世城郭「茅ヶ崎城」の遺跡だった!? バイクで往く城跡巡り
日本全国に3万以上もあったと言われる「城」は、普段気にせずに歩いている街中や、家の近所の公園に残されていることもあります。バイクで訪れた「茅ヶ崎城」も、現在は公園として整備されていました。
戦国の世になる以前から、人が暮らしていた場所だった
各地の城跡をバイクで巡る旅をしていると、いくつかのパターンがあることに気づきます。城そのものが丁寧に保存されて一般解放されていたり、見物できる大規模な城はもちろん多数ありますが、今では田畑になっていたり、城址公園として整備されていることもよくあります。
また神社仏閣に隣接(神社や寺の裏山などが城であるパターンが多い)していたり、古墳のあった丘陵を山城として利用しているパターンもよく見られます。
今回訪れた横浜市都筑区の「茅ヶ崎城址公園」は、入口正面には民家があり、横浜市営地下鉄「センター南駅」近くで、まさに住宅街の中の丘陵にある城跡でした。

早渕川(はやぶちがわ)中流右岸の三角山から東に連なる丘陵の先端部に築かれており、現地に設置された解説板には次のように記されていました。
●茅ヶ崎城址は「空堀(からぼり)」「郭(くるわ)」「土塁(どるい)」などが良好な状態で残る貴重な中世城郭遺跡。早渕川を北に望む自然の丘を利用して築城されている。
●茅ヶ崎城は14世紀末~15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなる。16世紀中ごろには二重土塁とその間に空堀が設けられた(この築城方法は、後北条氏独特のものとされる)。
●築城には、それぞれの時期に相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や後北条氏(戦国時代)が関与していたと推定される。
●16世紀末までには、城としての役割は終わる。江戸時代には徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)などとして利用され、「城山」という地名とともに、今日まで保存されてきた。
平成2年~10年、平成15年・17年に発掘調査が行われ、堀、土塁、土橋(どばし)の様子が明らかにされています。
公園内の各所に詳細な解説板があるので、それらを読みながら散策することができました。
また建物跡や井戸なども発見され、さらに弥生時代後期や古墳時代後期、平安時代の竪穴式住居跡など、かなり古い時代の遺構も見つかったそうです。

解説板には城を取り巻く歴史的背景も記されており、今まで訪れてきた関東の城跡の多くに共通する歴史的な流れでもあります。その一部はNHKの番組「歴史探偵」の北条早雲(ほうじょうそううん)の回でも紹介されていました。
●1338年に足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都に室町幕府を開き、関東の統治機関として鎌倉公方(かまくらくぼう)足利氏と、その補佐役の「関東管領」上杉氏が力を持つ。
●15世紀半ばになると、鎌倉公方と上杉氏が対立、さらに上杉氏一族の内紛も激しくなり、関東を中心に大規模な戦乱が起こる。
●1476年の上杉氏家臣、長尾景春(ながおかげはる)の乱では、約3.5km離れた「小机城(こづくえじょう)」が太田道灌(おおたどうかん)に攻め落とされる。
●15世紀終わり頃、北条早雲が関東支配を進め、1495年に「小田原城」を奪取。関東各地に支城を中心とした領国を作っていく。
この「茅ヶ崎城」は「小机城」を中心とした後北条氏の勢力下に組み込まれていたと考えられています。「茅ヶ崎城」の最高所に高さ8mほどの櫓を設置すると「小机城」を望むこともできたそうです。
1590年に豊臣秀吉の軍勢が押し寄せましたが、「茅ヶ崎城」を含む11の村に対して軍勢による略奪や放火を禁止した秀吉の禁制が発布されています。
この地が荒れ果てることなく、現在は閑静な住宅街と長閑な公園として残っているのも、秀吉が影響していたのかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。
城の規模は東西330m、南北200m、総面積は約5万5000平米とのこと。14世紀末~15世紀前半に関東管領上杉氏の影響下で築城されたと考えられ、東西2つの郭のみだったところが15世紀後半には4つの郭に拡大し、土塁と空堀も改築されたそうです。
16世紀中頃になると後北条氏独特の築城によって防備も強化されています。生活エリア「根古屋(ねごや)」があったとされる場所や空堀なども見られて、城好きにはたまらないものがありました。
「土器」「遺構」「燃料」「生活」など、それぞれのテーマの解説板も充実しています。歴史的に貴重な城跡は、気軽に散策も楽しめる長閑な公園でした。



















