“信長不在”を突いた襲撃事件 京都「本圀寺の変」とはどんな出来事だったのか 『豊臣兄弟!』ゆかりの地をバイクで巡る旅

戦国時代の京都で起きた「本圀寺の変(ほんこくじのへん)」の舞台をバイクで訪れました。永禄12年(1569年)1月5日、将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が拠点としていた「本圀寺」が襲撃された事件があったとは、信じられないほどの静謐な場所でした。

パワースポットとしても知られる静謐な雰囲気

 NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、尾上右近さんが演じる足利義昭(あしかがよしあき)は、織田信長の支援を受けて室町幕府15代将軍に就いていましたが、信長が領国の美濃(岐阜)へ戻り不在だった隙を突かれ、旧来の権力勢力が反撃に出て義昭を襲撃したのが「本圀寺の変(ほんこくじのへん)」です。

 襲撃を仕掛けたのは、かつて京を支配していた「三好三人衆(みよしさんにんしゅう)」です。彼らは幕府に強い影響力を持っていましたが、信長の上洛で勢力を失い、再起を目指して義昭を標的にしたのです。

「本圀寺」へ至る道は細いが、クルマでのアクセスも可能で駐車場も備わっていた。「開運門(通称:赤門)」の向こうに寺がある
「本圀寺」へ至る道は細いが、クルマでのアクセスも可能で駐車場も備わっていた。「開運門(通称:赤門)」の向こうに寺がある

 三好三人衆は、戦国期の畿内で勢力を誇った武士団で、構成員は 三好長逸(ながやす)、三好宗渭(そうい)、岩成友通(いわなりともみち) の3名とされています。元々は三好長慶(ながよし)の重臣として活躍し、京都の実権を握るほどの力を誇りました。

 1565年の「永禄の変」では13代将軍・足利義輝(よしてる=義昭の兄)を討つという大仕事も成し遂げましたが、その後の内紛で力を失い、信長の上洛と共に京から退却していた経緯がありました。

 1568年に信長は三好三人衆を京都から追放し、彼らが擁立していた第14代将軍義栄(よしひで)を廃し、仏門に入っていた義昭を第15代将軍として確立させていたのです。

「本圀寺の変」は、信長不在を好機と見て義昭の拠点を急襲し、「再び畿内支配への足掛かりを作ろう」と動いた事件です。

 しかし、義昭側の護衛部隊や信長配下の武将らの奮戦もあって、最終的に襲撃は退けられました。特に奮戦して活躍したとされるのが、ドラマの中で要潤さんが演じる明智光秀(あけちみつひで)です。

金色の鳥居が目を引く加藤清正を祀る場所。本堂背後にある清正廟は、加藤清正の娘の搖林(ようりん)尼が建立したもの
金色の鳥居が目を引く加藤清正を祀る場所。本堂背後にある清正廟は、加藤清正の娘の搖林(ようりん)尼が建立したもの

 信長自身も軍勢を動かし義昭の救援に急ぎ駆け付けています。このとき信長は、岐阜から京都へわずか2日という驚異的な速さで進軍したとも言われています。

 結果として義昭は命を落とすことなく救われましたが、この事件をきっかけに、信長は義昭のための新たな拠点として二条御所を整備し、織田政権下で幕府体制の再編を進めていくことになります。

 それは単に将軍を守るという役割だけでなく、信長自身の政治的な基盤を強化する意味合いも持っていました。信長の政治基盤はまだ脆弱でしたが、迅速な対応、機動力を示す事件でもありました。

 そんな物騒な事件のあった「本圀寺」にバイクで訪れました。寺の歴史は古く、前身は1253年、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん・鎌倉時代に法華経を唱えた宗祖)が住む鎌倉の法華堂(ほっけどう)で、1345年に鎌倉から京都に移遷しています。

 訪れたのは平日の午前中ということもあって、参拝者は見られず静かな寺内をのんびりと散策したり、お参りしました。財運の銭洗弁天(ぜにあらいべんてん)などのパワースポットとしても知られています。

 そんななか、秀吉との関わりを知ることができたのは、寺の入口にあたる「開運門(通称:赤門)」です。

 1592年、ドラマで伊藤絃さんが演じる加藤清正(かとうきよまさ)が寄進した山門で、解説板によると清正は尾張の貧しい家に生まれ、秀吉に従ってどんどん出世し幸運を勝ち取った「開運の神様」として尊崇されたとのことです。

 縁起の良い寺社を巡り、帰路につきました。

【画像】大河ドラマ「豊臣兄弟!」縁の地「本圀寺の変」の舞台となった場所を画像で見る(15枚)

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