「秀長さん」の町に残る100万石の城 「転用石」が積まれた石垣が印象的な「郡山城」を歩く 『豊臣兄弟!』ゆかりの地をバイクで巡る旅
奈良県大和郡山市に残る「郡山城(こおりやまじょう)」は、羽柴秀長(はしばひでなが/のちの豊臣秀長)が大和(やまと)・紀伊(きい)・和泉(いずみ)を治める拠点とした城です。石が採れにくい土地に築かれた石垣や天守台を眺めると、秀長の領国経営が見えてきました。
寺社勢力の強い大和で秀長は何を築いたのか
奈良県大和郡山市に残る「郡山城(こおりやまじょう)」をバイクで訪れました。そこでまず印象的だったのは、城下に掲げられた「秀長さんゆかりのまち」というのぼりでした。戦国武将を「さん」付けする表現に、この町が秀長を身近な存在として受け止めていることが伝わってきます。
当時の領民感情をそのまま断定することはできませんが、現在は秀長が親しみを込めて語られていることは確かでしょう。
城の始まりは、筒井順慶(つついじゅんけい)が天正8年(1580年)に入城したことにさかのぼります。その後、天正13年(1585年)、秀吉の弟である秀長が、大和・紀伊・和泉の100万石を領有して城へ入りました。秀長は豊臣一門のなかでも最大級の大名となり、豊臣政権による畿内統治の重要拠点として整えられていきます。
ただし、大和は簡単に治められる土地ではありませんでした。「興福寺(こうふくじ)」や「春日大社(かすがたいしゃ)」をはじめ、古くから寺社勢力の影響が強かった地域です。秀長に求められたのは、単に城を構えることではなく、寺社や在地勢力を調整しながら、大和を豊臣政権の支配に組み込むことでした。その答えのひとつが、城の大規模整備です。

城跡を歩くと、天守台をはじめとする石垣の迫力に圧倒されます。しかし郡山周辺は、城づくりに必要な石を大量に得やすい土地ではありませんでした。そのため、石垣には寺院の礎石、庭石、五輪塔、石地蔵など、さまざまな「転用石」が使われています。
こうした転用石は、石材不足を補う工夫であると同時に、寺社勢力の強い大和で新たな支配の形を示す意味もあったのかもしれません。「寺社勢力の武力を削ぐことが目的だった」とは断定できないので、石材確保と政治的な側面から見たいところです。
その象徴的な存在が、天守台北面の石垣に残る「さかさ地蔵」です。石垣の中で、頭を奥へうつむくように積まれているため、その名で呼ばれています。
築城時の切迫感を伝える一方、現在は信仰の対象としても供養されており、城の力強さと祈りの記憶が同じ場所に残っています。

もうひとつ見逃せないのが、「幻の天守」です。天守台は残っていますが、そこに建っていたであろう天守の絵図や文献が少なく、長く実態がはっきりしませんでした。
しかし発掘調査で礎石や金箔瓦が確認され、豊臣政権期に天守が存在していたことが明らかになったそうです。天守台に立つと、大和郡山の町並みから奈良盆地までを広く見渡せます。
現在の「郡山城」は、華やかな天守が復元された城ではありません。石垣に近づけば転用石が見られ、天守台に上がれば「幻の天守」の輪郭が浮かびます。
秀長は兄・秀吉を支えた名補佐役として語られがちですが、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』を観てこの城を歩くと、難しい土地を治めた、凄腕政治家としての姿が見えてきました。














