高速道路脇に広大な陣屋が!? 首都高「川口ハイウェイオアシス」近くに「赤山城跡」があった バイクで往く城跡巡り

日本各地に多数残る「城跡」は、意外と身近な場所にも存在します。埼玉県川口市の「赤山城跡」は、約170年もの間、伊奈氏によって脈々と引き継がれた陣屋です。地形を巧みに利用したその作りは、今でも痕跡を見ることができました。

自然の低湿地を利用した「赤山城」、山城とは一味違う構造が魅力

 首都高速道路「川口PA」が2022年4月にリニューアルされ、「川口ハイウェイオアシス」と連結しました。そしてそのすぐ近く、埼玉県川口市に「赤山城跡」があります。「赤山陣屋」とも呼ばれ、埼玉県の指定文化財(旧跡)となっています。

「赤山城跡(あかやまじょうあと)」は埼玉県指定文化財(旧跡)。現地では案内板による解説が充実しているので、歴史や構造などを理解しやすい。ここは城跡の南側
「赤山城跡(あかやまじょうあと)」は埼玉県指定文化財(旧跡)。現地では案内板による解説が充実しているので、歴史や構造などを理解しやすい。ここは城跡の南側

 バイクで現地に赴いてみると様々な案内板が設置され、文章や絵図の解説により歴史や構造を知ることができました。ちなみに川口ハイウェイオアシスがある場所も、元は家臣屋敷地だったようで、その規模の大きさが窺い知れます。

 案内板の解説を要約すると、次の通りです。

・伊奈氏は徳川家康の関東入国とともに鴻巣、小室(現 埼玉県北足立郡伊奈町)領一万石を給され、12代に渡り関八洲(武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、安房、常陸)を管轄した。

・三代忠治の時に、赤山領として幕府から七千石を賜り、1629年に小室から赤山の地に陣を移した。これが「赤山城」で、以来10代163年間、伊奈氏が居城した。現在は東側に堀と土塁を一部残すのみ。

・本丸と二の丸部分だけで11万平方メートル(11ヘクタール)、付帯施設を含めると77万平方メートル(77ヘクタール)にも及ぶ広大なもの。

北堀、東堀に沿った散策道がある。途中、案内板に記載されていた「御陣山稲荷(ごじんやまいなり)」もある
北堀、東堀に沿った散策道がある。途中、案内板に記載されていた「御陣山稲荷(ごじんやまいなり)」もある

・伊奈氏は治水、新田開発など利水事業に多くの業績を残している。江戸時代における一大国家プロジェクトと言える規模で、幕府財政の基礎固めに果たした役割は大きかった。

・水害と戦った伊奈氏にふさわしく、水神やその化身としての大蛇にかかわる伝説や民話がたくさん伝えられている。

・陣屋自体が自然の低湿地(外堀)と内堀によって囲まれ、主要な入口には門番が配置され、「四つ門」と呼ばれている。

東京外環自動車道のすぐ下に、北堀がしっかりと保存されている。今まで全く知らなかった跡地だけに興奮
東京外環自動車道のすぐ下に、北堀がしっかりと保存されている。今まで全く知らなかった跡地だけに興奮

 伊奈流(備前流)と称される土木技術の粋を集めたと言われる赤山城跡を知るべく、バイクを置いて散策してみました。本丸であった平地を臨みながら舗装された散策路を歩くと、北堀に着きます。そして、ちょうど東京外環自動車道のすぐ下に、この北堀と東堀の跡が残っていました。

 想像を超える、分かりやすい堀の跡に興奮しながら、東堀の方まで歩みを進めました。雨が降っていたこともあり日中にも関わらず薄暗い堀沿いの道は、すぐ近くを高速道路が走り、家族連れで賑わうハイウェイオアシスが間近にあるとはとても思えません。そんな幽玄的な堀跡を堪能することができました。

現在は深さ約1.5mの堀跡となっているが、当時は土塁の高さを合わせると約6mの堀だったと案内板に記載されていた
現在は深さ約1.5mの堀跡となっているが、当時は土塁の高さを合わせると約6mの堀だったと案内板に記載されていた

 当時あった低湿地を外堀に流用するなど、土木技術に優れ、合理的な作りであったことも分かる、とても有意義な城跡巡りでした。普段何気なく通っている道の近くにもこんな城跡があるのだから、面白いものです。

【画像】かつて広大な敷地を有していた「赤山城跡」を見る(14枚)

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