大切に保存される東京都青梅市の「勝沼城跡」 バイクで往く城跡巡り

かつて日本全国に数万規模の数で存在していた城は、現在でも観光地として残る有名な城から、住宅地や山林にひっそりと残る城跡もあり、いずれも興味深いものです。東京都青梅市に残存する「勝沼城跡」をバイクで訪れました。

明確に残る「空堀」と「土塁」に興奮しきり!

 かつて日本全国に数万規模の数で存在していた城は、現在でも観光地として残る有名な城から、住宅地や山林にひっそりと残る城跡もあり、いずれも興味深いものです。東京都青梅市に残存する「勝沼城跡」をバイクで訪れてみました。

光明寺の前に「勝沼城跡」の解説板が設置されていた。この辺り一帯が城郭だったと考えられるが、遺構がしっかり保存されているのは裏山エリアになる
光明寺の前に「勝沼城跡」の解説板が設置されていた。この辺り一帯が城郭だったと考えられるが、遺構がしっかり保存されているのは裏山エリアになる

 勝沼と言っても山梨県甲州市の勝沼でありません。東京都青梅市にある城跡群のひとつです。勝沼城は光明寺と妙光院という寺の裏山に残る城跡で、その解説板はお寺の前と城跡エリアに建てられています。まずはその内容を要約すると次の通りです。

・平将門(たいらのまさかど)の末裔と称し、多摩川上流域を領していた三田氏の居城だったが、永禄6年(1563年)、滝山城の北条氏照(ほうじょううじてる)によって滅ぼされた。

・その後、北条氏照の家臣、師岡山城守将影(もろおかやましろのかみまさかげ)が入り、城の改変を行なったため「師岡城」とも言われている。

・天正18年(1590年)、八王子城落城とともに廃城となった。

東京都の歴史環境保全地域に指定され、歩きやすい歩道が整備されていた
東京都の歴史環境保全地域に指定され、歩きやすい歩道が整備されていた

 永禄4年(1561年)に上杉謙信(うえすぎけんしん)が関東を席巻した際に、勝沼城の城主である三田氏は謙信の旗下に入りますが、謙信が越後へ帰国した後に北条氏が反撃し、上記の永禄6年(1563年)三田氏の滅亡に繋がったようです。

 予習を済ませ、早速城跡を巡ります。歩道がしっかりと整備されており、山自体も主郭の標高が215mと高くないため、さほど苦労せずに歩くことができました。

 3つの曲輪(くるわ:城内に設けられた平坦な地、「郭(くるわ)」とも表される)が東西に並び、その中央が主郭と考えられているようです。

 歩道からは明確な「空堀(からぼり)」や「土塁(どるい)」が見て取れます。保存状態も良好です。ちなみに3の曲輪とされる平地は墓地になっていました。

草木で覆われているが、深い堀の跡がしっかりと確認できた
草木で覆われているが、深い堀の跡がしっかりと確認できた

 さらに歩き進めると、鉄塔の元に開けた土地がありました。地図を見なくてもここが主郭とわかる作りです。なにしろ眼下に町が見下ろせるのです。色々と山城を歩いていると、だんだんと城の構造や築城主の意図が分かるようになるのも面白いところです。

 さらに主郭とは異なる趣で、杉林となっている2の曲輪や、曲輪間を隔てる「堀切(ほりきり:尾根を分断することで敵を足止めする)」の跡などを確認することができました。

主郭からは眼下に町が見下ろせる場所もあった。樹木などで視界が妨げられず、気持ちが良い
主郭からは眼下に町が見下ろせる場所もあった。樹木などで視界が妨げられず、気持ちが良い

 ここは「勝沼城跡みどりの会」が保全活動を行なっているようで、毎月第1金曜日と第3日曜日に活動しているようです。道中にはミツバチの巣があり、注意喚起の看板もありました。こういった活動のおかげで、城跡巡りも安全にできるというものです。

 いにしえの武者達の魂が眠る城跡、これからも大事にしたいものです。

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