家康公ゆかりの地をバイクで巡る旅 ついに宿敵、織田信長との同盟を結んだ「清洲城」

2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、人気アイドルグループ「嵐」の松本潤さんが徳川家康を演じることもあり、家康ゆかりの地も話題となっています。「桶狭間の戦い」に敗れ、故郷の「岡崎城」に帰還した家康は、自らの存続のために今川との縁を切り、織田信長との同盟を結びました。当時の信長のシンボルである「清洲城」をスーパーカブで訪れました。

当時の信長のシンボルである「清洲城」へ

 2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、人気アイドルグループ「嵐」の松本潤さんが徳川家康を演じることもあり、家康ゆかりの地も話題となっています。「桶狭間の戦い」に敗れ、故郷の「岡崎城」に帰還した家康は、自らの存続のために今川との縁を切り、織田信長との同盟を結びました。

織田信長の死後、後継者を決めた「清洲会議」の舞台としても知られる「清洲城」は、「名古屋城」築城の資材とするため解体されたが、1989年に模擬天守閣が建ち、街のシンボルとして復活している
織田信長の死後、後継者を決めた「清洲会議」の舞台としても知られる「清洲城」は、「名古屋城」築城の資材とするため解体されたが、1989年に模擬天守閣が建ち、街のシンボルとして復活している

 両者によるこの「清洲同盟」は、現在の見解では両者の対面は無く、起請文(誓約書)を交わしただけだとされています。歴史的に大きな転換期だったと言えるでしょう。

 当時の家康は国衆(くにしゅう)と呼ばれる地方の領主に過ぎず、戦国大名に従属していた身分でした。今川家は当時、北条、武田と同盟を結んでおり、関東侵攻を目論んでいた上杉への対抗策に追われていたこともあり、西三河の地(岡崎)を拠点として織田と対立していた徳川を助けることはありませんでした。

 松平家の存亡、西三河の安泰を考えた末に、家康は1561年、織田信長との同盟を決意しました。それはつまり、今川との縁を切ることにほかなりません。

1560年、織田信長が桶狭間へ出陣の途中、熱田神宮に戦勝を祈願し、大勝したお礼に奉納された重厚な「信長塀」をモデルにしたものがあった。熱田神宮には本物の塀が120mほど現存している
1560年、織田信長が桶狭間へ出陣の途中、熱田神宮に戦勝を祈願し、大勝したお礼に奉納された重厚な「信長塀」をモデルにしたものがあった。熱田神宮には本物の塀が120mほど現存している

 某テレビ番組で言及されていた歴史学者の磯田道史氏によると、「織田の尾張は60~100万石、家康の三河は30万石、対して東の遠江は30万石、駿河15万石、伊豆6.9万石ということで、家康にとっては東に勢力を伸ばすよりも西に伸びて行くほうが得するのは明らか」とのことでした。

 今川と縁を切り、信長と同盟を結び、西に憂いの無くなった家康はその後、東三河にある今川方の重要拠点であった「牛久保城」(愛知県豊川市)を攻めています。

天守閣の中には、当時の町人や戦国武士の暮らしを解説する展示物が見られる。石落としを再現した人形もリアル
天守閣の中には、当時の町人や戦国武士の暮らしを解説する展示物が見られる。石落としを再現した人形もリアル

 今回訪れた、愛知県清須市にある「清洲城」は、1405年に建立されたと言います。1555年に織田信長が入城し、尾張を統一。「桶狭間の戦い」で今川を破った織田は、ここ清洲から天下統一への道を歩み始めたと言われています。

「関ヶ原の戦い」以後、清洲の城下は人口6万人を超える賑わいを見せていたようですが、1610年、家康は「清洲城」の廃城と「名古屋城」の築城を命じ、政治、経済、司法の中心は清洲から名古屋に移りました。

バイクは「清洲城」近くにある大型の無料駐車場へ。城までは歩いてすぐの距離
バイクは「清洲城」近くにある大型の無料駐車場へ。城までは歩いてすぐの距離

 現在の「清洲城」は平成元年(1989年)に、街のシンボルとして400年の年月を超えて建立されたものです。天守閣は4階まであり、土器や刀、火縄銃などの展示、バーチャルシアターや映像シアターなどで歴史を知り、感じることが可能となっています。

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