家康公ゆかりの地をバイクで巡る旅 三大危機の最初の試練「三河一向一揆」の舞台とは
若き家康に訪れた最初の試練「三河一向一揆(みかわいっこういっき)」では、敵は信仰の元に強大な軍事力と経済力、技術力を持つ「一向宗」です。身内が敵となり、絶体絶命のピンチをくぐり抜け、戦国大名としての礎を築いたとされる歴史の地をスーパーカブで巡りました。
一体どうしたのか? 家康三大危機のひとつ「三河一向一揆」での選択
天下取りを目指す若き徳川家康に襲い掛かった最初の危機が「三河一向一揆(みかわいっこういっき)」です。NHK大河ドラマのタイトル「どうする家康」が示すように、天下統一を成し遂げるまでの家康には数々の岐路に立たされますが、中でも「三大危機」と呼ばれる大ピンチです。その後、武田信玄に完敗した「三方原(みかたがはら)の戦い」、そして「本能寺の変」以後に険しい山河を超えて逃避行した「伊賀越え」と続きます。

「三河一向一揆」は浄土真宗(一向宗)の門徒、信者による激しい抵抗の歴史です。その中には家康の家臣も含まれていたため、家臣同士の対立という厳しい状況に追い込まれました。
そもそもどうしてこのような事態が起きたのか? それは家康の父、松平広忠(まつだいらひろただ)が岡崎城主だった頃、愛知県安城市の「本證寺(ほんしょうじ)」、愛知県岡崎市の「上宮寺(じょうぐうじ)」、「勝鬘寺(しょうまんじ)」に「守護使不入(しゅごしふにゅう)」の特権を与えたことから始まります。これは鎌倉時代に定められた、特定の公領や荘園に対して税の徴収や警察権を行使することを禁じたものです。

事件は1562年、家康の家臣が「上宮寺」から兵糧米を強制的に徴収してしまうことがきっかけとなりました。今川との戦争による負担増の中、不入の権を脅かしたわけです。その背景を紐解くと、一向宗はかつて数百の寺社を抱える強大な力であり、いわば国中が門徒であったということです。集落全体が防御都市で、優れた商人や職人を抱えており、当時の家康の岡崎城の城下よりも、経済的にも軍事的にも進んだ都市でした。

特権を侵害されたとする寺社は結束し、家臣団との激しい戦争が勃発します。それが1563年に起きた「三河一向一揆」です。1月15日に起きた「小豆坂(あずきざか)の戦い」が有名ですが、ここはかつて尾張の織田信秀(おだのぶひで)と今川義元(いまがわよしもと)が2度に渡って激突した戦場でもあります。
一揆勢との戦いに勝った家康は、事態を半年で収束させることができました。家康は敵方についた家臣や一揆方の命を奪わず、一向宗からの改宗を命じました。応じなかった僧侶や家臣を追放し、寺の外堀を埋めさせ、多くの寺社を破却しています。

23歳の家康の英断や知略も見える出来事であり、のちの家康にとって重要な側近となる本田正信(ほんだまさのぶ)らの命を奪わなかったことなども特筆すべきことでしょう。
結果、三河統一を推し進め、戦国大名としての礎を築くきっかけとなりました。まさに「雨降って地固まる」とは、このことを指しているようです。

















