「長篠の戦い」両軍合わせて死者1万6000人余……激戦を物語る史跡の数々 家康公ゆかりの地をバイクで巡る
「長篠城」と「設楽原」を巡る、武田軍と徳川・織田連合軍の合戦「長篠・設楽原(ながしの・したらがはら)の戦い」は、徳川・織田の勝利となりました。激しくぶつかり合い、多くの死者を出したこの地には、その激戦の模様を物語る史跡が多く残されています。機動力の高いスーパーカブでそれぞれの場所を巡ってみました。
史跡をたどり、壮絶な戦を想像する
NHK大河ドラマ『どうする家康』でも描かれた、1575年の「長篠・設楽原(ながしの・したらがはら)の戦い」は、武田家の衰退、やがては滅亡のきっかけとなった歴史に残る壮絶な戦です。決戦の舞台となった現在の愛知県新城市には多くの石碑などが立ち、その歴史を後世に伝えています。「馬防柵」や家康、信長らの本陣跡だけでなく、地図上で得られる情報をもとに、機動力に優れたスーパーカブでいくつかの史跡を巡ってみることにしました。

「設楽原決戦場」の北端、「丸山砦」と「大宮前激戦地」では、武田軍右翼と織田軍が激しく戦いました。現地に設置された解説板には「はじめ織田軍の佐久間信盛が陣を敷いたが、後、武田軍の馬場美濃守(ばばみのんかみ=武田軍の勇猛な武将として知られる)がこれを攻めて占拠した」と書かれていました。
馬場美濃守は佐久間らの軍勢を柵の中に追い込み「丸山砦」を占領。佐久間勢の劣勢を見た信長は滝川一益(たきがわかずます)と羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を側面から攻撃させ、武田軍を敗退させたそうです。

このような激戦地だけでなく、戦死者の首を洗ったという「首洗池」や、戦死者の霊を弔った「信玄塚」など、供養とされる場所も多くあります。
さらには五味与三兵衛(ごみよさべえ)という越後浪人の墓まであります。この人物は武田方として砦を守っていましたが、武田軍を劣勢に追い込んだ酒井忠次(さかいただつぐ)らの奇襲によって討死しています。浪人でありながら墓が残され、史跡にまでなっている人物は、かなり珍しいかもしれません。

しかし解説板には「謎の塚…」と書かれています。五味が布陣していた「中山砦」とこの墓は離れており、「中山砦から逃れて勝頼本陣近くで討死した説」や「塩瀬久兵衛という人物が中山砦から首を運んできた」という説もあるようです。

この地には新城市の「設楽原歴史資料館」もあり、見所はたくさんあります。日本の歴史を大きく揺り動かした地を巡ってみると、いろいろな発見があり、興味は尽きません。












