1000年前の遺構が現存!? 絵師集団「狩野派」源流の山城「狩野城」へ バイクで往く城跡巡り

静岡県の伊豆半島と言えば、ツーリングスポットとして訪れるライダーも多く、人気の観光地です。伊豆に流れる一級河川「狩野川(かのがわ)」を眺めるたびに思い起こされるのが、日本画最大の絵師集団「狩野派」です。400年もの間伊豆を支配していた狩野氏がその源流です。その息吹を感じさせる「狩野城(かのじょう)」の史跡を訪れました。

伊豆に来ると思い起こす、狩野一族と、北条早雲

「狩野城(かのじょう)」は、平安時代に築城されたと言われる、現在の狩野川上流付近にある城です。伊豆によく訪れる人ならば「狩野」と聞くと狩野川を思い起こすかもしれませんし、また絵画好きならば狩野正信(かのまさのぶ)が起こした絵師集団「狩野派」を思い浮かべるかもしれません。

トイレや無料駐車場が備わっている「狩野城跡」の入り口。整備が行き届いた山城と言える
トイレや無料駐車場が備わっている「狩野城跡」の入り口。整備が行き届いた山城と言える

 スーパーカブで伊豆の山城を巡っていると、キーパーソンとして浮かび上がってきたのがこの狩野一族と、北条早雲(ほうじょうそううん)です。

 伊豆市の観光情報サイトや「狩野城跡」の解説板によると、狩野氏は平安時代後期の11世紀半ばから室町時代後期の15世紀までの約400年間、狩野地区の領主として君臨していました。

「狩野城」は1100年頃に標高約190mの小高い丘に築城されたもので、鎌倉時代に発達した二重掘りを備えており、郭(くるわ)などで区分されたエリアが1000年近く保存されている貴重な史跡とのことです。

 狩野氏の祖である維景(これかげ)ではなく、2代目の維職(これもと)か、3代目の維次(これつぐ)が最初の城主であったと考えられているようです。

散策道は苔によって天然の絨毯のような踏み心地で、とても歩きやすかった
散策道は苔によって天然の絨毯のような踏み心地で、とても歩きやすかった

 そして1493年、後北条氏(鎌倉時代の北条氏と区別し、戦国時代に活躍した北条氏のこと)の伊豆侵攻により「狩野城」は破れ、開城しました。その相手の武将こそが、戦国武将の元祖とも言われる北条早雲です。

 伊豆には早雲にまつわる山城が多く存在していますが、北条に敗れ、家臣となった狩野氏は、その後北条と共に小田原に移り、そこでも長年に渡り活躍したと言われています。

 さらに、狩野氏は絵師としても開花しました。絵の才能豊かな狩野景信(かげのぶ)が息子の正信(まさのぶ)と京都に上り、正信が「狩野派」を起こして日本画最大の流派を作り上げました。

 現代人にとっても特に有名なのが狩野永徳(えいとく)で、「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」、「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」などは、教科書や絵画展などで一度は目にしたことがある人も多いのではないでしょうか。

「空堀」と、堀を分断して敵の侵入を防ぐ「堀切(ほりきり)」の跡が明確に残されている
「空堀」と、堀を分断して敵の侵入を防ぐ「堀切(ほりきり)」の跡が明確に残されている

 関東の覇者となった早雲の元に下り落城した「狩野城」ですが、遺構の保存状態は良好で見所はたくさんあります。駐車場にバイクを停めてから散策しました。

 設置されている解説板がとても充実しており、長大な狩野氏の年表や系図は大きな掲示で分かりやすく解説されています。

 遊歩道も整備されていて歩きやすく、トレッキング感覚で気持ち良く歩くことができました。しばらく歩くと「出丸」に到着。これは本城から張り出すように設けられた郭・曲輪(くるわ)のことで、最前線を守るためのもの。有名なところには「大阪城」の「真田丸」があります。

 さらに歩くと空堀(からぼり)があり、本郭(ほんぐるわ)へ到着。周囲には高さ1mほどの土塁が見られます。

 じつは本郭よりも中郭の方が面積が広く、「題目堂」という木造の建物もあります。そこには昭和58年(1983年)に書かれた、年季の入った解説板もありました。

 敵の侵入を防ぐ「堀切」や「二重堀」なども残されており、当時の山城の防御設備を知ることができます。

写真では伝わりづらいが、二重の堀で敵の進路を妨げる「二重堀」の痕跡も残されている
写真では伝わりづらいが、二重の堀で敵の進路を妨げる「二重堀」の痕跡も残されている

 早雲に敗れはしたものの、「狩野」という名前は狩野川沿いをバイクで走る度に目にしますし、後世に残る国宝や重要文化財を含む狩野派の絵画がある限り、未来永劫に残るはず。

 そういう意味では、彼らもまた歴史の覇者なのではないか、と思うのでした。

【画像】静岡県伊豆市「狩野城跡」を詳しく画像で見る(20枚)

画像ギャラリー

最新記事