別名多すぎ!? 江戸時代初期までの約300年も備後地方の中心的役割を果たした「神辺城」へ バイクで往く城跡巡り
備後国(びんごのくに:現在の広島県東部)の中心的な拠点として、約300年にわたって威光を誇っていた「神辺城(かんなべじょう)」の跡をバイクで訪れました。いまでも空堀や井戸の跡、わずかな石垣を見ることができます。
城主の入れ替わりや改築を繰り返し、役目を終える
広島県福山市神辺町にある「神辺城跡(かんなべじょうあと)」をバイクで訪れました。じつはこの山城には別名がたくさんあります。現地に設置された解説版によれば、歴史的には「村尾城」が正しい呼称だそうですが、そのほかにも「神辺道上城」や「紅葉山城」、「黄葉山城」、「楓山城」などがあります。ここでは一般的に用いられる「神辺城」で統一します。

この山城は標高133mの黄葉山山頂に主郭部を築き、北と西側の尾根にも郭を連ねています。1335年の南北朝騒乱で戦功をあげた浅山景連(かげつら)が築城したとのこと。現在見られる姿は1600年に福島正則(まさのり)が大幅に改修した状態です。
その後も歴代の備後国(びんごのくに)の守護職が居城し、山名氏による備後支配が続いていましたが、戦国時代には大内義隆(よしたか)という人物の支援を受けた杉原理興(ただおき)が、尼子(あまご)方についていた山名忠勝(ただかつ)を撃破して神辺城主となり、自身を山名氏と名乗って城下町を形成したそうです。
しかし1543年、理興は尼子方についたため大内軍による攻撃が繰り返され、1549年に「神辺城」を脱出します。1555年になると城に戻り、杉原氏に復したとのこと。
その後、戦乱や内紛などによって1582年からは毛利氏の直轄となりますが、1600年の「関ヶ原の戦い」に敗れ、福島正則の家老である福島正澄(まさすみ)が入城しました。
福島氏に代わって入ってきた水野勝成(かつなり)は新たに「福山城」を築き、「神辺城」を廃城として門などの建物、石垣などを転用したそうです。そのため、現存する遺構は尾根を削って作られた郭や堀などとなっています。

とはいえ、見応えは十分ありました。資料館麓の駐車場にバイクを停めて本丸に向けて歩き出すと、すぐに堀切の跡があります。これは堀を断ち切って敵の侵入を防ぐための防御施設です。
さらに5分ほど歩くと、複数の櫓跡、二の丸跡、本丸跡と続きます。本丸跡の南側に残存する石垣の看板があったので尾根を歩いてみると、わずかではありますが大きな石垣が残されていました。地面はキャンバー状で枯れ葉が積もっていて足場が悪かったのですが、これは見る価値アリでした。
それぞれの郭跡はかなり広く、しっかり整備されていて、石で作られた看板も分かりやすいものでした。解説板には戦国時代の伝説の悲話も記されていて、興味深く読みました。
それは前述した杉原理興と、敵対する大内方の平賀隆宗(たかむね)との争いで、「神辺城」の落城で理興を救援に向かうも「時すでに遅し」と自害した秋光(あきみつ)という武士の話です。そして隆宗はわずか1年後に病死し、理興が「神辺城」に返り咲いて杉原氏の姓に戻したとのこと。
激戦や運命に翻弄された者たちの話は、町民に長く語り継がれているそうです。
椿が咲き誇る初春の「神辺城跡」は平和そのもので、老夫婦が楽しそうに散策している姿がありました。かつては激しい争いがあり、多くの血が流れた山城を、こうして無事平穏に訪ねることができる平和な時代に、改めて感謝の念を抱きました。

















