戦国時代の山城から平地で町の発展に? 栃木県佐野市「佐野城」に見る近世城郭の転換点 バイクで往く城跡巡り
栃木県佐野市の「佐野城跡」は、かつて「唐沢山城」を本拠とした佐野氏が築いた近世の城です。戦国の山城から、町とともにある平地の城への移転は、戦の世の終わりと、新たな統治の時代の始まりを象徴していました。
「駅チカ城跡」!! 戦の世の終わりを想像させる「城山公園」を歩く
栃木県佐野市の、現在は「城山公園」として整備されている「佐野城跡」は、慶長7年(1602年)に佐野信吉(さののぶよし)によって築かれた「佐野城」があった場所です。それ以前の佐野氏の本拠は、関東屈指の山城として知られる「唐沢山城」で、今回はバイクで「唐沢山城跡」を訪れた後に移動してきました。
上杉謙信の攻勢をも退けた難攻不落の城として名を馳せた要害を離れ、なぜ平地へと拠点を移したのか。そこには時代の大きな変化がありました。

戦国時代、城は戦うための施設でした。天然の険しい地形を活かし、敵を寄せつけないことが最優先され、「唐沢山城」はまさにその典型で「四つ目堀」や「虎口」などの防御構造と、関東平野を見渡す立地によって強固な防御力を誇っていました。
しかし「関ヶ原の戦い」(1600年)以降、天下は徳川家康のもとで統一され、戦の頻度は大きく減少します。それに伴い、城の役割は防御力だけでなく、領国支配の拠点としての機能が求められます。政治、行政、経済を担う中心として、城は「開かれた場所」へと変わっていきます。
その流れの中で築かれたのが「佐野城」でした。現地の解説板によると、「関ヶ原の戦い」の後、1602年に築城と町割が開始され、1607年に「唐沢山城」を廃して佐野氏の本拠となったそうです。
独立丘陵を利用した平山城で、本丸・二の丸・三の丸が南北に連なる連郭式の構造となっています。「唐沢山城」のような急峻な防御は無く、城下町との結びつきが強く、統治の拠点として合理的に設計されていたようです。
実際、佐野の町はこの城を中心に形成されていきます。寺院の移転や町割りの整備が進められ、現在の市街地の原型が築かれました。「唐沢山城」が「守る城」であったのに対し、「佐野城」は「治める城」として機能していたのです。

発掘調査によって、本丸周辺からは礎石建物跡や石組溝、井戸跡などが確認されており、城内における生活や政務の様子がうかがえます。
整然とした区画や施設配置は、近世城郭としての性格をよく表しています。しかしその歴史は長くは続きません。慶長19年(1614年)、築城からわずか数年で改易となり、廃城となってしまいます。
現在、城跡の多くは市街地に取り込まれていますが、主郭部は「城山公園」として整備され、土塁や堀の痕跡、発掘された遺構の一部が残されています。何しろ町との近さが印象的で、三の丸のすぐ南には「JR佐野駅」のホームが見えます。
戦うための山城から統治のための平山城への変化は、日本の城郭史における大きな転換を象徴しているようです。三の丸に至ってはもはや城らしさを全く感じさせない長閑な公園で、地元の高校生や住民がのんびりと憩う場でした。
ただし、発掘調査では急斜面の防御システムである切岸(きりぎし)や内堀も出現し、確かにここは戦国時代の城だったわけです。「佐野城跡」を歩くと、その静かな風景の中に時代の流れそのものが重なって見えてくるようでした。

















