まさに「天空の城」! 秀長が初めて任された「竹田城」 信長の西国戦略を支えた天空の要塞とは? 『豊臣兄弟!』ゆかりの地をバイクで巡る旅
兵庫県朝来市の山上に広がる「竹田城跡」は、「天空の城」として知られる絶景の山城です。織田信長の天下統一をめぐる西国戦略の最前線であり、羽柴秀長が初めて任を託された舞台でした。バイクで訪れ、山城歩きを堪能しました。
刻々と表情を変える山上の石垣群に見惚れる
標高約353mの古城山の山頂に築かれた「竹田城」は、南北約400mにわたり曲輪が連なる大規模な山城です。現在は天守などの建物は残っていませんが、野面積みの石垣が山上に広がり、その縄張りの巧みさを体感できます。秋には雲海に浮かぶ姿が人気を集めますが、もともとは但馬支配の要衝でした。
NHK番組『歴史探偵』で取り上げられた際の解説によると、戦国後期に天下統一を目指す織田信長の前に立ちはだかった、中国地方を広く治める毛利輝元(もうりてるもと)が山陰・山陽に強固な勢力圏を築き、西国最大級の大名として存在感を示していました。
信長にとって中国方面の制圧は避けて通れない課題であり、拠点の確保が急務でした。その最前線基地として重視されたのが「竹田城」とのことです。
山陰と播磨を結ぶ交通の要衝に位置し、街道と河川を押さえる立地は兵や物資の移動に適しています。味方からの救援物資を受け入れやすい地理条件も備えており、信長にとっては西国攻略を進めるための重要な実戦拠点だったと考えられています。

この城を任されたのが、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公、羽柴秀吉(はしばひでよし)の弟・秀長(ひでなが)でした。秀長が本格的に城を預かる立場となった最初とされています。兄を支える補佐役の印象が強い秀長ですが、但馬(兵庫県北部)での実績がその評価を確かなものにしました。
秀長は「竹田城」を拠点に、但馬北部へと軍を進めます。標的は毛利方にくみする「有子山城(ありこやまじょう)」で、円山川(まるやまがわ)流域を押さえる重要拠点であり、その攻略には川の利用が欠かせませんでした。
また『歴史探偵』では、この円山川をめぐる秀長の工夫が紹介されました。当時の織田軍には十分な船がなく、大軍を効率よく渡河させるのは困難だったところ、秀長は円山川流域で古くから鮎漁が盛んであったことに目をつけます。そして漁師に対し、生業を免除する免状を交付し、その代わりに船を提供させたと伝えられています。
この施策によって織田軍は戦に必要な船を確保し、円山川をスムーズに渡れる体制を整えました。河川を活用した機動的な兵站が可能となり、戦況は大きく動きます。
天正8年(1580年)に「有子山城」は陥落し、これにより但馬北部は織田方の支配下となり、毛利勢力は後退します。

信長は羽柴兄弟の但馬攻略を高く評価し、秀長に「竹田城」の城代となるよう命じたと伝えられています。これにより秀長は但馬統治の中核を担う存在となりました。これが播磨・但馬の平定です。
秀吉は信長に仕えて約20年後、50万石以上の大名へと上り詰め、その躍進の陰で秀長が堅実に実務と軍略を担っていたことは見逃せません。
さて、現在の「竹田城跡」を訪れる際にはいくつか注意が必要です。徒歩の場合、登山道を約40~50分歩きます。急坂や石段が続くため、歩きやすい靴と服装が必須です。
観光シーズンには「山城の郷」から中腹まで循環バスが運行されますが、本数が限られていることを知りました。タクシーを利用すれば中腹の駐車場までアクセスできるようですが、今回は山城歩きを楽しむため、バイクを駐車場に停めて徒歩で挑みました。
雲海が連なったり晴れ渡ったりと、刻々と表情を変える美しい城跡を堪能しました。この美しさの裏に、信長の西国戦略と秀長の初任務が刻まれていたことを、TV番組などを通じて知りました。天空の絶景は、戦国最前線の記憶を静かに今へ伝えています。










