“三英傑”揃い踏みの決戦!! “長篠・設楽原”は秀吉と秀長が見た戦国の転換点だった 『豊臣兄弟!』ゆかりの地をバイクで巡る旅
愛知県新城市の長篠(ながしの)・設楽原(したらがはら)は、戦国時代を語るうえで外せない古戦場です。1575年(天正3年)にここで繰り広げられた「長篠・設楽原の戦い」は、戦国時代屈指の激戦として伝えられています。織田・徳川連合軍と武田軍が激しくぶつかった、戦いの跡を偲ばせる多数の史跡をバイクで巡ってみました。
豊臣兄弟が主役ではなかったが……
愛知県新城市の長篠(ながしの)・設楽原(したらがはら)は、戦国時代を語るうえで外せない古戦場です。1575年(天正3年)にここで繰り広げられた「長篠・設楽原の戦い」の様子を描いた「長篠合戦図屏風」には、織田信長、徳川家康、そして豊臣(羽柴)秀吉という3人の天下人の姿があり、重要な戦であったことが分かります。
そして当時の戦術が大きく変わるきっかけとなった合戦でもありました。
人数には諸説ありますが、武田勝頼(たけだかつより)が「長篠城」を奪うべく1万5000人以上の軍勢で包囲する中、徳川家康と織田信長は連合軍を結成し、城を救うためおよそ3万8000の兵を率いて設楽原に布陣したとも言われています。

結果として連合軍が勝利し、武田軍は大きな損害を受けたと伝わっています。実際にバイクでこの一帯を巡りましたが、長閑な田舎の風景にも関わらず、石碑や供養箇所があり、相当な数の人が亡くなった凄惨さを感じずにはいられませんでした。
この合戦が歴史に名を残す理由のひとつは、鉄砲の戦術的運用です。織田・徳川連合軍は鉄砲隊を組織的に配置し、柵(馬防柵)を築いて武田の騎馬隊を迎え撃ちました。これにより、機動力の高い武田騎馬隊の突撃を効果的に防ぎ、合戦の勝敗を決したと言われています。こうした戦術は後世の合戦にも影響を与えたとされています。
この戦いを語るとき、主要人物としてよく挙がる名は織田信長や徳川家康ですが、後の天下人となる豊臣秀吉(羽柴秀吉) もまた、この戦国の大舞台で武功を立てた武将の1人でした。
当時すでに信長配下として実戦経験を積んでいた秀吉は、鉄砲隊や歩兵の運用、そして兵糧・後方支援など多岐にわたる軍事面で功績を残しています。合戦のさなか、主力部隊の指揮に加わったり、戦略的配置において信長の側近として活躍したと考えられています。
戦の後、信長はこの勝利によって勢力をさらに拡大し、秀吉はその軍事的才能を信長から高く評価されました。秀吉はこのころから戦術家としての評価を固め、やがて天下統一への道を歩む足がかりを築いたのです。

そして秀吉の弟である 豊臣秀長(とよとみひでなが)も、兄の背中を追いながら戦国の世を駆け抜けました。
秀長には戦場で大勢を率いるような武将記録は残っていないものの、戦略支援や兵站・補給といった裏方の役割を担い、戦の勝利に寄与しました。戦闘中の調整や物資の手配は戦局を左右する要でもあり、兄・秀吉の戦術面を支える存在として欠かせない人物でした。
長篠・設楽原には、当時の激戦を物語る史跡が点在しています。戦死者を弔う石碑や供養塔、戦場の様子を伝える解説板など、今も歩いたりバイクで巡ると、戦国の息吹を感じられるようです。
討ち取った首を洗ったとされる池や、柵跡を再現した展示などもあり、当時の合戦の迫力を想像することができます。
例えば「大宮前の激戦地」では、武田軍右翼と連合軍が激突した痕跡が残ります。また「丸山砦」の激戦地では、武田軍が一時的に勢いを見せたものの、連合軍が総力を挙げてこれを撃退したと言われています。
いずれの史跡にも合戦の痕跡が色濃く残り、訪れる人の胸に戦国の時代を甦らせる力があります。
「長篠・設楽原の戦い」は、日本史全体の流れを変えた合戦です。秀吉と秀長の歩みを感じながら史跡を巡る旅は、戦国の激動を体感する格好のツーリングルートでもありました。


















