「ここは地獄じゃ」織田連合軍の決戦「姉川の戦い」秀吉・秀長の心中は!? 『豊臣兄弟!』ゆかりの地をバイクで巡る旅
戦国時代の運命を決定づけた「姉川(あねがわ)の戦い」の舞台となった滋賀県長浜市を訪れ、豊臣(木下)秀吉・秀長兄弟の活躍に焦点を当てて、その足跡を辿りました。
撤退戦からの合戦で多くの血が流された場所
元亀元年(1570年)、織田信長・徳川家康連合軍と、浅井長政(あざいながまさ)・朝倉義景(あさくらよしかげ)連合軍が激突した「姉川(あねがわ)の戦い」がありました。
この年の春に、信長と同盟を結んでいた長政の裏切りにより、戦の場で窮地に立たされた信長と秀吉らによる決死の撤退戦は「金ヶ崎の退き口」として後世に語り継がれています。
当時の秀吉は、信長の直参として頭角を現し始めていました。「姉川の戦い」の前哨戦で、信長は浅井氏の拠点「小谷城(おだにじょう)」の至近距離にある「横山城(よこやまじょう)」を浅井から奪い取り、その守備を任されていました。

「横山城」は、浅井の重要拠点である「小谷城」と南(京方面)を結ぶ連絡路を遮断する要衝で、ここを落とされると、浅井氏は孤立してしまうことになります。そのため、長政は同盟相手の義景に援軍を要請し、「横山城」を救出するために出陣します。これが「姉川の戦い」の直接的な原因と言われているようです。
歴史上では信長と家康の活躍が語られることが多い合戦ですが、秀吉とそれを支えた弟の秀長もまた、のちの天下人、豊臣政権構築への布石となる経験を積んでいきました。
バイクで「姉川古戦場」に到着すると、姉川にかかる「野村橋」付近に設置されたいくつもの石碑や案内板を読むことができました。この一帯には両軍合わせておよそ4万人近い兵が布陣し、午前5時頃から午後2時頃まで戦いが続いたとされています。
現在の古戦場は穏やかな農地や川辺の風景が広がっていますが、当時は姉川を挟んで両軍が対峙し、戦いの火蓋が切られた戦場です。
この合戦に参加した秀吉は、信長の重臣として軍の指揮・補給など多岐にわたる役割を担っていたようです。秀吉がどの部隊を率いたかの詳細は分かりませんが、信長の側近として前線で動き回ったことでしょう。

戦国時代の戦いではただの突撃だけでなく、軍の統率や後方支援の的確さが生死を分けることも多く、秀吉のような人物にとっては格好の修練の場であったはずです。
この合戦の中で秀吉は、戦闘の混乱を整理し、味方をまとめる役割を果たしたとの伝承もあります。また徳川軍と浅井軍が激しくぶつかり戦線が崩れかけた時間帯、秀吉は素早く周辺部隊を集結し、織田軍左翼の崩壊を防いだとも言われています。
歴史研究者の中には「秀吉の行動は、信長が全軍の指揮に集中できる環境を作った」と評価する声もあり、実際、信長が中央を突破できたのは側面が持ちこたえていたからこそとも言えそうです。
「姉川の戦い」は、派手な武功よりも「いかに戦線を維持し続けたか」が勝敗を分けた戦いでもあり、ここに秀吉の才覚が光ったのではないでしょうか。
秀吉が前線で指揮を執る間、秀長は補給路の確保や周辺の地侍たちの懐柔に奔走していたのかもしれません。秀吉が大胆な作戦を打ち出せるのは、背後を固める秀長という「静かなる盾」があったからこそ。まさに、秀吉が「光」なら秀長は「影」となり、兄弟最強ユニットで大きな成果を上げていったのです。










