自然の要害だった関東屈指の山城「八王子城跡」へ バイクで往く城跡巡り
国史跡「八王子城跡」(東京都八王子市)は、豊臣秀吉による関東制圧の一環で1590年に落城した未完の山城です。北条氏滅亡の悲話が残り、心霊スポットとしての印象も強い城跡へ、スーパーカブで訪れました。
心霊スポットかもしれないが……見事な山城だった
とある雑誌の企画で、各著名人が「最も好きな山城」を紹介するコーナーがあり、ある方が「八王子城」を推していました。その方の地元だそうですが、かつては今ほど整備されておらず、訪れる人も少ない山城で「落城時に心中した者たちの血で池が赤く染まった」という怖い逸話が心霊談として有名なこともあり、その印象しかなかったと書かれていました。

確かにその印象は強く、一介の「山城ファン」としても「八王子城跡」にだけは身構えてしまうのも事実です。訪れるなら、きっと他にも来訪者がいるであろう晴れた日の明るい時間帯にしようなど、恐れながら考えていたのです。
意を決して、スーパーカブで訪れたのは平日でしたが、想像以上に来訪者が多い印象です。「小田原城」や「石垣山城」もそうでしたが、近年、城郭整備や発掘が進んでいる城跡もあり、「八王子城跡」もそのひとつなのかもしれません。
スーパーカブを駐輪場に置き、麓にあるガイダンス施設を訪れると地元の若い方々が熱心に会議中でした。予想に反して活気に満ちています。施設の見所も多く、北条家の変遷と「八王子城」の関係などが分かりやすく解説されていました。

解説者を伴って散策する一行も見られ、道中は整備されていて解説板も丁寧で、歴史や遺構がとても分かりやすいです。勝手に抱いていた怖いイメージはいつの間にか消えていました。
落城時の悲話、悲劇もまた史実であり、目を逸らさずに見るべきものですが、そこに至るまでに備えていたもの、暮らしや文化なども山城を見学する上での醍醐味であり、今後もそのような気持ちで各地を訪れようと思いました。
「八王子城」は小田原北条氏、北条氏照(うじてる)が築いた山城です。氏照は「滝山城」(八王子市)に居城していましたが、1584~1587年頃に移ってきたと言われています。その理由は豊臣秀吉による関東制圧に対抗するためで、平地の「滝山城」よりも急峻な「八王子城」の方が籠城に適していると考えたからだそうです。
しかし1590年6月23日、前田利家(まえだとしいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)の軍に攻められ、わずか1日で落城してしまいました。

「八王子城」は城下町の「根古屋地区」、氏照の「御守殿(ごしゅでん)」があった「居館地区」、戦闘時の要塞となる「要害地区」を持つスケールの大きな山城です。まずは山を登り、要害地区の「本丸」を目指すことにしました。
標高460mという深沢山の山頂に設けられた「本丸」への道は、序盤からかなりの急勾配です。過去に登った山城の中でも急峻で、体力的にキツイ部類に入ります。
息を整えながら足元に注意して登っていくと、やがて「小宮曲輪」が、さらに進むと「松木曲輪」にたどり着き、その先に「八王子神社」がありました。このように、ひな壇状に尾根を造成して曲輪(くるわ)として守りを固めていたことが分かります。
解説板によると、落城した1590年6月23日、城主の氏照は「小田原城」に詰めていました。重臣の横地監物(よこちけんもつ)、中山勘解由(なかやまかげゆ)らが「八王子城」を守り奮戦したそうですが、大軍の前に破れたとのことです。

また別の解説版では「八王子」の地名の起源が記されていました。913年に「華厳菩薩妙高(けごんぼさつみょうこう)」が山中で修行している際に、牛頭天王(ごずてんのう)と八人の王子が出現したため、916年に八王子権現を祀ったと言われています。
この伝説に基づき、氏照が八王子権現を城の守護神としたことで、この地名が定着したそうです。前述の横地監物は落城時に奥多摩へ落ち延び、奥多摩町には社があったそうですが、ダム建設で湖底に沈む前に、この地に移されたとのことです。
神社から少し先に進むと「本丸」がありました。とても小さな本丸跡ですが、時代の波に抗おうとした北条家の息吹を感じることができるスポットでした。















